いーぐる掲示板への投稿

id:eaglegotoさんへ。いーぐる掲示板を私の投稿が埋め尽くすのは良くないし不愉快でしょうから、こちらに続きを記しますので、気が向いたらお読みいただければ幸いです。まず、掲示板への投稿をコピーしてから、続きを書きます。

友人のパスワード付き掲示板への私の意見ですが、悪気はないし、別にソシュールを参照してみることそのものに異論があるわけではありません。そうすることに可能性があるなら、そうすべきでしょう。私もソシュールを勉強し直しています。加賀野井秀一ソシュール』(講談社選書メチエ)を読みましたが、非常にいい本です。著者はメルロ=ポンティ研究者で、日本で丸山圭三郎の弟子であり、フランスでリオタールの弟子であった人です。もちろん入門書で済ませるわけにはいきませんから、巻末の邦語文献案内が一番役立ちます。

【C3の掲示板への書き込み】
私はそれほど教条主義でもない。
メルロ=ポンティから知覚体験を考えることはジャズ批評、ジャズ理論に有効かもしれないが、ソシュールフーコーの参照が妥当かどうか不明だといっているだけだ。
特に「フーコー的切断面」を考えるなら、切断以前・以降をどうやって知るのか疑問だ。
さらに、ジャズの歴史はたかだか100数十年だろう。その短いスパンの間に、エピステーメーフーコー)、パラダイム(クーン)の遷移や転換があるといえるのか。
もし切断があったとすればビバップ革命だろうが、それによってジャズが理解不能になったりはしていない。フリージャズ、電化マイルスも同じだ。ジャズ世論は賛否両論で混乱したが、ジャズそのものが根本的に変容して別のものになったりはしなかったはずだ。ところが、ジョシュア・レッドマン以降そうなったというならば、論証する義務が後藤さんにはある。

映画学は言語学記号論記号学を参照しているが、以前(5年くらい前)私のブログのコメント欄で後藤さんと私が論争したとき、後藤さんは記号論記号学に否定的だった。そのときは私が負けを認めた。たいしてまともな意見もなかったから当然だ。ところが現在の後藤さんが、miyaさんと一緒になってソシュールに依拠するのはどういうことなのか。ソシュールはもちろん言語学者だが、バルトなど記号論者にもおおいに影響を与えている。記号論はジャズに使えないが、ソシュールは使えると主張するとすれば、合理的、説得的な根拠が必要だ。

【書き込み終わり】

さて、続きですが、映画学では、言語学記号論記号学だけではなく、精神分析も参照されます。ドゥルーズが『シネマ』で精神分析を一切使わないのは彼の個人的偏見以外のものではありません。彼の決定的な論点は、第二次世界大戦のカタストロフィの経験が映画のイマージュを根本的に変えてしまった(感覚-運動的紐帯の弛緩、純粋な光・音響状況の出現、「見者」、時間-イマージュなど)ということでしたが、そのことをベルクソンの概念枠組みで説明するのはどうしても無理があります。むしろ、フロイトの戦争神経症者の夢の分析を参照すべきなのです。フロイトはそこから反復強迫、さらに、「快感原則の彼岸」を考えましたが、ドゥルーズが行動-イマージュの彼岸に時間-イマージュを考えるのはそれと全く同一の議論です。ベルクソンには感覚-運動的紐帯が弛緩してしまうという議論はありません。例外は、死、そして臨死体験です。ですから、慎重である必要があるし、ベルクソンの『物質と記憶』で全部説明してしまうのは不可能です。ドゥルーズが個人的に嫌いであったとしても、フロイトと付き合わせるのが合理的なのです。

それから、『シネマ』の理論的根拠はベルクソンの『物質と記憶』のほかにチャールズ・サンダース・パースの創設した記号学ですが、『シネマ』のパースに依拠したイマージュ分類が挫折し失敗しているが、だからいいのだ、というようなドゥルーズ崇拝者、ドゥルージアンが無数にいますが、私はどうかしていると思います。パースの記号学に依拠してイマージュの分類をしてみたがうまくいかなかったというのが本当なら、そこで考え直すのが普通です。

それはともかく、ソシュールとパースは決定的に違います。ソシュールではシニフィアン(記号表現)、シニフィエ(記号内容)の二項関係ですが、パースは、「指示対象」を加えた三項関係で考えるのです。パースはヘーゲルに影響されて、一切を三段階で考えました。けれどもここには重大な問題があります。ソシュール以降の思考では、言語外の「指示対象」を素朴に前提できないのです。言葉があり、意味があり、物がある、というのが普通の考え方ですが、素朴に「物」があるといえるのかどうか問題にされているのです。『言葉と物』というのは、アイロニカルな題名です。フーコーは素朴に「物」があると考えません。物がどう知覚され思考されるかは、エピステーメーによって拘束されます。そう考えるとしたら、素朴に「物」「知覚」があるとはいえなくなります。フーコーだけがそう考えたわけではなく、知覚が言語ないし概念枠によって媒介され規制されているといった、一種カント的な発想をする人々は数多くいます。英米哲学にもいるはずです。

後藤さんと私の5年前の論争は、ジャズの美学について、プラトン主義や記号論記号学を考えるのが妥当かどうか、ということでした。後藤さんは妥当ではないという意見で、明星一平さんも後藤さんに賛成しましたし、私自身もまともに意見をいえませんでしたので、自分の主張を取り下げました。当時の私は合理的ではなく、プラトン記号論に漠然と言及しただけでしたから、当然だったと思います。

当時の自分の考えを思い出していえば、私が記号論記号学といったのは、一般的なそれではなく、ニーチェプルーストを論じるドゥルーズの極めて特殊な文脈における記号理論でした。どういうことかといいますと、ドゥルーズは、記号、徴候(フランス語ではsigneという同一の語です)を解釈者がどう解釈するか、ということは、その現象、記号、徴候というよりも、その解釈者のありようを暴露してしまう、と考えます。彼はそれがニーチェの意見だと思っています。つまり、或る特定の現象、記号、徴候をどう「診断」するか、どう解釈するかが、記号を解釈する人本人の倫理的、美的な資質を暴露してしまうというようなことです。

例えば、バド・パウエルの『リターン・オブ・バド・パウエル』を聴いて、悲惨だと考える人もいれば、ニューヨークに戻ってヨーロッパ時代よりも陽気だと考える人もいます。そのことはパウエルの音楽の意味の解釈ですが、パウエルそのものよりも、そう解釈する人本人のありようを証ししているのだ、というような考えです。

勿論そのようなドゥルーズの記号理論は一般的ではありませんから、5年前に私がそういうものを持ち出したのは当然、妥当ではなかったはずです。ですから改めてお詫びします。

プラトンに言及したのは、実は今でもそう思っていますが、或る美的な作品、美的な現象、美的な体験が「美しい」という根拠は美のイデアがというしかないのではないか、ということがあるからです。2000年前のプラトンは古臭いかもしれませんが、人間の美的体験の根拠に他にどのようなものがあり得るのか、ちょっと分かりません。