近況アップデート

どうでもいいことを書けば、ベーシック・インカムは私には地域貨幣以上によく分かりません。確かに現金がいただけるなら助かりますが、本当にそんなことがあり得るのでしょうか。ちょっと判断できません。

余計なことをいいますと、オバマアメリカは多分ブッシュ(息子)のときより多少ましなのでしょうが、それだけでしょう。クシニッチを大統領にしたいというのが「平和省」のきくちゆみさんの意見ですが、そういうことが現実になればどんなにいいだろうと私も思いますが、どうすればそういうことができるのかちょっと分かりません。

自分にできることがほとんどないのだとしても、一応新聞その他で世界情勢は調べています。調べていますが、やはりできることがないというのはどうしようもありません。病気、貧困その他の理由があります。

例えばパレスティナアフガニスタンイラクその他のニュースを入念に読みますが、情報を集めてもできることはないし、せいぜいパレスチナ・オリーブの商品を買うくらいでしょうが、それすらも金銭がないからできません。

そういえば皆川さんから、パレスチナ・オリーブのニュースレターが届きました。そういうことは非常に有難いですが、彼女の商品を購入できていないので、ちょっと申し訳ないです。ちなみに彼女は我々が東北に遠征したときにNAMに参加してくれました。地域貨幣には入りませんでしたが、Power To Peopleというグループで古川さんという当時東北に住んでいた女性がパレスチナ・オリーブなどの商品を地域貨幣で売っていました。でも、なかなかしんどかったようです。私も力になれませんでしたから、申し訳なく思います。古川さんとは十年前に一度蛭田さんのアパートでお会いしましたが、何となく、我々のことが嫌いだったようです。まあ、それが普通でしょう。

我々の多くが、普通に政治や運動をやっているような人々からいかがわしいと感じられたとしても、しょうがなかったでしょう。「くじ引き」とかいっているのですから。

皆川さんがNAMに参加してくれたのはたぶん、「くじ引き」などがいいと考えたからではなかったでしょう。我々が東北まで行って直接彼女達と会って話したから入ってくれただけでしょう。もし彼女がNAMの理論を支持したなら地域貨幣に入ったはずですが、彼女は彼女なりに熟慮して、地域貨幣には参加しませんでした。そういうことも合理的な判断だったと思います。

彼女はパレスチナ・オリーブという事業、商売をやっていますから、自分の商品を地域貨幣で販売したらどうなるか、ちょっと想像してみたのでしょう。そして、地域貨幣に入るメリットがないと考えたから入らなかったのでしょう。

2012年の現在からみれば、そういうことは当然だと思いますが、十年前は遺憾であると感じていました。

地域貨幣を無理してやらなくてもいいし、自分の生活を犠牲にしてまでやっても美容師の後藤さんのようになってしまうだけですから、かえってよくないはずです。

柄谷さんは「もっと軽く考えろ」が口癖でしたから、きっと軽い気持ちでNAMを始めたのでしょうが、ああいうことを言い出せば本気にする人々が出てくるのも当然です。それと、どうみても、「存在していない部屋に引っ越していくことは誰もできない」事実を論駁できないでしょう。「L」は存在しない部屋だったのです。

彼は自分の始めた運動がああいうことになるとは予想しなかったでしょうが、熟慮が足りなかったといわれてもしょうがないでしょう。

箱の中に閉じてゆくのではなく、箱を巨大化させるのでもなく、またその存在を否定してしまうのでもなく、その外へ出るのだ。茫漠と広がる混沌の中に人間の居場所を定めるために必要であった空間の区切りとしての箱は、いまや記憶で充満している。おぞましいと同時に懐かしい記憶の箱。ガラスの羊たちは、そこから元気に外へ出てゆく。

最後に指摘しなければならないのは、箱の外へ出ることは、どこか夢の世界へ逃れることではないという点である。この点に関しての記述は後に譲らねばならない。(矢崎由布ヨーゼフ・ボイス論序説−大きな箱としての<ブロック・ボイス>」『京都美学美術史学』)

こういうことを書ける人は死ななくてもよかったはずなのですが、でも死にました。

秋吉敏子『ソロ・ライブ・アット・ザ・ケネディ・センター』を聴いています。

ソロ・ライブ・アット・ケネディ・センター

ソロ・ライブ・アット・ケネディ・センター

NAMの原理では、資本・国家・ネーションが「ボロメオの輪(環)」を形成してしまい、誰もそこから出ることができないから、「アソシエーション」という次元を追加してみるという話でしたが、そういう論理構成もよく考えてみたほうがいいでしょう。http://yokato41.exblog.jp/11497255/

capitalst-nation-stateが緊密な三位一体をなすのだとしても、社会民主主義さえもそれが生き延びるための最終形態だから否定する、というような理屈も疑わしいでしょう。どうみても新自由主義よりは社会民主主義のほうが相対的にましなのではないでしょうか。そして「相対的にまし」である以上のことというのは、本当はあり得ないのではないでしょうか。

アソシエーション論といっても、具体的な内実がない場合も多いし、社会的起業を志向する左翼の多くが結果的に資本主義そのものと全く同一であるということになってしまうというのもよくありますが、NAMもその一例だったのでしょう。批評空間社を作っても、所詮株式会社でした。

杉原さんも、企業に投資すればいいという結論になりました。

秋吉敏子のソロでも、"Un Poco Loco"を演奏していますが、「ちょっとお馬鹿さん」というくらいの意味だとC3から教えてもらいましたが、「ちょっとお馬鹿さん」というのはまさにNAM(NAM会員)に相応しいというべきでしょう。

しかし本家本元のBud Powellの"Un Poco Loco"もトリオ演奏であり、Max Raochとの緊密なインタープレイで成り立っていましたが、それをピアノソロで演奏してしまおうという秋吉敏子は凄いです。

そういえば2003年か2004年だったと思いますが、杉原さんが突然、現在の日本社会の政治的に反動的な雰囲気が不愉快である、とMLで怒り出したことがありましたが、彼は左翼だからそう考えても当然ですが、でもその不愉快なもろもろのことに何か具体的にできることがあったわけでもなかったはずです。ただ単に不愉快であったというだけだったはずです。

そもそもcapitalist-nation-stateが緊密な三位一体で出口がないというだけのことをいうのに、「ボロメオの環」を持ち出す必要などなかったでしょう。「形式化」に熱心だった時期の柄谷行人の「ゲーデル問題」、浅田彰の「クラインの壺」と同じ『知の欺瞞』(ソーカル)です。柄谷さんはラカンは詐欺師であるといいますが、その彼自身がラカンと全く同一のことをやっているのはどういうことでしょうか。

ラカンについては、書かれたテキストというよりも、話されたもの(セミネール)が大量にありますから、吟味するのは大変ですが、とりあえずいえるのは、彼がソシュールシニフィアンシニフィエという概念を改竄しながら導入して精神分析を基礎づけようとしたこと、晩年それでは不十分であると感じて数学素(マテーム)やトポロジーを導入したけれども意味不明だったということです。「ボロメオの環」もその一つです。