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ドゥルーズにとって「出来事」という概念は基本であり、ベルクソンにとっての「純粋記憶」に相当しますが、彼のいう「出来事」というのは、20年代ジャズ・エイジロスト・ジェネレーションの人気作家だったが、その後大恐慌その他で金銭も仕事も何もかも失い、自分自身は深刻なアルコール中毒に陥り、奥さんは発狂して精神分裂病になり、娘さんを学校に通わせる金すらなくなってしまった晩年のフィッツジェラルドとか、第一次世界大戦の戦闘で負傷して下半身不随の身体障害者になってしまったが、「私の傷は私自身よりも先に存在していた」とかいって「運命愛」を語るジョー・ブスケとか、アルコール中毒で悲惨な死に方をした『活火山の下で』(これは確かに偉大な小説で、大江健三郎も褒めていました)のマルコム・ラウリーとかです。ドゥルーズ自身も、「どうして『出来事』というのはこうも悲惨なものしかないのか」と自問していましたが、でもそれへの彼自身の回答はありませんでした。そしてそういうドゥルーズ自身、『意味の論理学』執筆当時、執筆も止まらないがどうしてもアルコールも止めることができないというようなアル中だったのです。「酒を飲まずに酒と同じ効果を引き出す」などという話ではありませんでした。

そのドゥルーズは、フィッツジェラルドの『崩壊』という小説ともエッセイともつかない文章の、「勿論、人生は崩壊の過程である」という冒頭の文章が大好きだったそうです。

フィッツジェラルドの晩年は『崩壊』に限らず、村上春樹が訳して中公文庫に入っている『マイ・ロスト・シティー』でも自分の娘を学校に通わせる金がなくなったということを延々と書いているのですから、日本でいえば太宰治とか私小説作家のようなものです。長篇小説の『夜はやさし』とか『ラスト・タイクーン』(未完)は意欲作でしたが、『夜はやさし』をヘミングウェイに見せたら、「君は自分を憐れみ過ぎる」などと貶されてしまい落ち込みました。ちなみにヘミングウェイフィッツジェラルドが死んでしまった後、やはりよく読んでみたら素晴らしい小説だった、というふうに意見が変わったそうです。

【cyubaki3との対話】
私は吉本隆明の愛読者だが、客観的にいって、彼の書いたものに意味など少しもないと思う。
初期から死ぬまでずっとそうだ。
『マチウ書試論』は素人が思い付きを書いただけだし、『転向論』が、非転向の共産党員が「大衆の動向」が分からなかったから馬鹿であるなどというのもつまらない。
「大衆の動向」と無関係に、転向は転向であり、非転向は非転向であるというのが客観的な事実だ。
芥川龍之介の死』も意味がない。芥川が本来庶民だったが知識人ぶろうとしたから神経衰弱になって死んだのだというような理解はつまらない。
「大衆の原像を自己思想に繰り込むのが思想家の課題である」などというのもただ単に吉本がそういう気がしたというだけだ。
『言語にとって美とはなにか』、『共同幻想論』、『心的現象論序説』は妄想だ。
『情況』の政治論が戦後民主主義を否定するのに何の意味もない。
『マス・イメージ論』『ハイ・イメージ論』には意味がない。
『悲劇の解読』、『源実朝』は少し面白いが、『書物の解体学』のように外国文学を論じると意味不明だ。特にあのジュネ論がわけがわからない。
『空虚としての主題』には時代的な意味しかない。当時の文学を読んで吉本がどう感じたかという読書感想文というだけだ。
山城むつみ柄谷行人やNAMのボイコット論を吉本が先取りしているというが、私も山城が用意した資料を読んだが、意味がないと思う。吉本の議論は、社会が豊かになったから可処分所得が増え、選択的消費ができるようになったから社会を変えるような力になるのだというような話だが、客観的にいってそんなことはあり得ない。幾ら統計とかで粉飾しようとどうしようもない議論は永久にどうしようもない議論であるというだけのことだ。