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私は20年もドゥルーズを読んできましたが、だから偉いなどといいたいわけではありません。むしろ逆です。私が到達した結論は、『意味の論理学』にも疑問を感じるのが普通であるということです。なぜなら、「指示」「表現」「意義」だけならごく普通の論理学で、ドゥルーズではないでしょうが、そこから先に進むべきではないと思うのです。『意味の論理学』を読みますとあれこれと書いてありますが、どうしてそういう理屈になるのだろうかと思うのが当然です。例えば、論理学では「意味」であるものに、哲学、存在論では「出来事」が対応しますが、ドゥルーズは自分のいう「出来事」として、例えばフィッツジェラルドの『崩壊』のような悲惨な経験しか考えません。でもどうしてそうなのかという合理的な理由は全く何一つありません。そういうことをおかしいと考えないならば変です。

『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』では、「生成」が基本概念ですが、「女性への生成」はあっても「男性への生成」はなく、「動植物への生成」はあっても「人間への生成」はありません。マイナーなものへの生成しかないというのがドゥルーズガタリの意見ですが、なぜそうなのかという合理的な理由は何もありません。そういうことも疑問に感じないとすれば、ただドゥルーズを信じているのだというだけです。

『意味の論理学』のドゥルーズフッサールを否定する理由は、常識(共通感覚)に囚われている、「根源的信念(臆見)」に疑問である、『デカルト省察』に疑問であるなどということが理由ですが、晩年のフッサールの「根源的信念」を否定するのならば、十分な吟味と説得的な理由が必要です。なぜなら、「根源的信念」は「生活世界」が成立するために絶対に必要なもので、例えば「世界が存在している」、「大地がしっかりと存在している」というようなことを、たとえ証明できないとしても信じる、そうでなければ生きていけない、ごく普通に日常的に生活を送ることもできないというような話です。ですから、それを否定してしまうならば、それなりの合理的で説得力のある根拠が必要です。それに『シネマ2』の晩年のドゥルーズ自身も、「この世界への信仰を回復しなければならない」という結論に到達してしまったのですから、結局同じことなのではないでしょうか。

それに吉本隆明が非政治的だったというなら、ドゥルーズもそうです。ガタリとの共著で詳しくマルクスを検討していても、それはガタリが持ち込んだ考えです。ドゥルーズの単著にまともな政治的意見は何もありません。『差異と反復』では、レーニンは「理念」を持っていたと一行書いてあるだけですし、『意味の論理学』では、「偉大な政治」が始まるためにはちょっとお腹の皮を張ればいい、とか書いてあるだけです。そういうことには驚くとか呆れるというのが普通です。

ちなみに「偉大な政治」というのはニーチェのアイディアですが、私がニーチェを読んでも、彼の政治思想が偉大であるとは全く思いません。キリスト教で堕落したヨーロッパ人を1000年掛けて叩き直すというような話ですから、日本人には何の関係もないようなことです。

『意味の論理学』が、「指示」「表現」「意義」「意味」によって「表層」を形成するとしても、「表層は脆い」というのがドゥルーズの意見です。彼の考えでは、精神分裂病によって「表層」は裂けてしまいます。どういうことかというと、滅裂言語になってしまうからです。書き言葉は無意味な記号の列になりますし、話し言葉は雑音(ノイズ)になってしまいます。事実アルトー全集の大部分がそういう滅裂言語や無意味な記号で埋め尽くされています。それが「文学の完成」だというのがドゥルーズの意見ですが、別に彼と同じ意見でなくてもいいし、むしろ同じ意見にならないほうが当たり前です。

アルトーは天才かもしれませんが、彼が「文学の完成」だとかいうのはわけがわかりません。ドゥルーズは、ルイス・キャロルの全著作と引き換えにするという条件でも、アルトーの1ページも渡したくないという意見だそうです。