近況アップデート

おはようございます。

‎9条改憲阻止の会の三上治さんという左翼から、吉本隆明は「父親のような存在」だったとかいう超長文メールが送り付けられてきましたが、三上さんがどう感じても自由だとしても、そういうものを不特定多数に送り付けてくる神経が分かりません。吉本に少しも共感しない人もいるということくらい思い至らないのでしょうか。ましてや「父親のような存在」だとかはどうでもいい話です。

そういうことは三上さんのような世代の左翼(全共闘でしょうか)のどうしようもない限界です。事実は一つであり、三上さんが吉本の文章をまともに読んでいないということだけです。

文章を読解できないから、吉本がいい人だったとかいう話になってしまいますが、いい人だからそれがどうしたというのでしょうか。吉本が実際に書いたものがどうしようもないという事実は少しも変わりません。

別に吉本隆明だけがどうしようもないというわけでもありません。『言語にとって美とはなにか』が特殊日本的だから普遍的な言語論ではないというならば、フーコーの『知の考古学』やドゥルーズの『意味の論理学』にしても特殊フランス的で、普遍的な言語論、論理学では全くありません。

『知の考古学』の基本概念は「言表(エノンセ)」ですが、フーコーはそれをまともに定義することができません。彼は英米哲学をあれこれ参照しながら、「言表」は命題ではない、とか、言語行為でもない、とかあれこれいいますが、積極的な定義は何もありません。彼の結論は、キーボードの配列、例えば"qwerty"のようなものが「言表」なのだということでしたが、そういう議論に普遍的な意味などあるのでしょうか。

『意味の論理学』のドゥルーズは、「指示」「表現」「意義」で成り立つ普通の論理学、言語論に「意味(sens)」という第4の次元を追加してしまいますが、その結果、彼の本は逆説(パラドックス)だらけになります。それでいいのだというのがドゥルーズの意見ですが、そういうことでいいのでしょうか。

そういうものを有難がる人々はどうかしています。ただ単に通常の論理学、言語論、科学史その他を少しも知らないから、フーコードゥルーズの議論が一般的ではないということが分からないだけです。

フーコードゥルーズは、一旦は構造主義を支持してみたが、後にそれから抜け出そうとしただけですが、そういうことはハイデガーから「狭いパリの知的遊戯」だなどと馬鹿にされても仕方がないような話です。

そもそもドゥルーズ精神分析を批判したのは、パリのラカン派が不愉快だったということと、ラカンから夕食に招いて貰ったがその晩ラカンがワインを飲み過ぎて酔っ払ってしまったのに腹を立てたというただそれだけのことです。フロイト批判は少しもフェアではないし、ラカン本人への批判ですらありません。ラカン本人は創造的だからいいのだというのがドゥルーズの意見でした。

ドゥルーズガタリがパリのラカン派を嫌悪したのに理由がないわけではありません。60年末の状況では、毛沢東主義者=ラカン派でした。そういう教条主義がいやなのは誰でも同じです。ドゥルーズにしても、毛沢東主義者=ラカン派のアラン・バディウに襲撃されて授業を破壊されるというような不快な体験をしました。けれどもラカン本人は右翼的だったのですから、毛沢東主義者が全員ラカン派になるとか、後年、スロヴェニアのラディカルな左翼であったスラヴォイ・ジジェクラカン理論の原理主義的な信者になるというようなことはわけがわかりません。それにそのジジェクは、ラカンのテキストを読んで理解できたわけでもありません。彼はどうしても分からなかったので、ラカンの娘婿のジャック=アラン・ミレールに逐一丁寧に教えてもらってようやく理解できたのです。そういう思想が普遍的ではあり得ないと私が考えるのも当然ではないでしょうか。

毛沢東主義者が全員ラカン派だったというのは、フランス、パリの特殊な状況ですから、日本に住み日本語で考える我々に関係などないことです。全共闘の多くが吉本隆明を熱狂的に支持していたというようなことを想像してみればいいのでしょうが、その吉本は『言語にとって美とはなにか』の執筆にしか興味がなかったのですから、当時の左翼が何を考えていたのか全くわけがわかりません。

ラカンは『エクリ』のろくでもない(読解不可能な)日本語訳に序文を寄せましたが、日本人は「漢字かな交じり文」で書くから精神分析をするのは不可能だし必要も意味もないというような意見でした。でも、日本人が神経症に罹らないなどということではないのですから、ラカンのいうことはわけがわかりません。そういう意見を有難がったり深遠だと思い込む柄谷行人山城むつみも意味不明です。柄谷、山城はラカン理論を理解しているわけですらなく、彼らは「漢字かな交じり文」にしか興味がないというようなことですから、もうどうしようもありません。

それに日本にも新宮一成藤田博史香山リカ斎藤環など無数のラカン派がいるはずですが、彼らは日本人は分析不可能であるというラカンの意見をどう考えるのでしょうか。ラカン理論は趣味なので臨床とは関係ないなどというようなしょうもないことなのでしょうか。

香山リカの場合は、彼女自身が書いていますが、医大生の頃ちょっとラカンを読んでみて感激したから、精神科医になればラカンを読み続けるような楽しいことができるのではないかと錯覚して精神科医になったが、実際に精神科医になってみると、その臨床はラカンとは何の関係もないということに気が付いたというようなどうしようもないことでした。

それに彼女はニューアカブームだったからあれこれフランス思想を読んだだけですから、ラカンも、ラカン派を批判しているドゥルーズガタリも何の区別も識別もできませんでした。彼女がラカニアンであれば、ドゥルーズガタリの批判をどう考えるのかが問題であるはずなのは当たり前ですが、そういう最低限のことにも彼女は気が付かず、ラカンドゥルーズガタリもただ漠然と雰囲気的に読んでみたというだけでした。そういうことは、ハイデガーではないですが、「知的遊戯」だと思われても仕方がないでしょう。

それから彼女が『自転車旅行主義』を書いたとき、どういう考えだったのか知りませんが、ラカンだけではなく英米の「可能世界論」に手を出してしまい、最終的にSFというよりもどうしようもない妄想になってしまったというようなことも全く理解できません。

新宮一成の『ラカン精神分析』は神秘主義ですし(「黄金比」がどうのというわけのわからぬ議論をしています)、斎藤環の『生き延びるためのラカン』は徹底的に通俗的です。通俗的な解説でラカン理論を普及しても意味がないし、それにラカン理論と「生き延びる」ことに何の関係もありません。『生き延びるためのラカン』のろくでもない通俗性はジジェクの『ラカンはこう読め!』といい勝負です。私がそういうくだらないものを軽蔑するのも当たり前ではないでしょうか。絶対に確実なのは斎藤環ジジェクラカンを理解しようとしても必ず間違えるだけだということです。

私は『生き延びるためのドゥルーズ』とか『ドゥルーズはこう読め!』などを書いてしまう人がいないということだけはましだと思っています。

けれども世界的な状況をみると、よく分からないことが多くあります。2012年の現在どうなっているか知りませんが、かつてのラテンアメリカではアルチュセール主義が流行っていたそうです。どうしてラテンアメリカアルチュセールが受容される素地があったのか分かりません。それから、スロヴェニアヘーゲルシェリングといったドイツ観念論など哲学の古典が翻訳されたのは近年のことですが、翻訳とか紹介を全部ジジェクとその弟子などのラカン派がやったので、スロヴェニアでは知的にものを考えるのも哲学史理解も全部ラカンのフィルターを通してだということであるそうですが(ジジェク自身の話です)、私はそういうことがいいことだとは思いません。古典は古典として客観的に読むほうがいいと思います。

哲学や思想は興味のない人にとってはどうでもいいことでしょうし、それでいいでしょうが、私自身は興味があるので、いい加減なふざけた意見は嫌いであるというだけです。それが吉本隆明香山リカ斎藤環ジジェクなどが嫌いな理由です。

少しドゥルーズを読み、少しジャズを聴いた。それだけのことだったと思います。大学院に行っても、偉くなることにも友達を作ることにも何の興味もありませんでしたし、NAMに入ってみたのはちょっとした不愉快な廻り道だっただけでした。金銭が尽きたからバイトをしても、病気ですぐにやめました。運動に参加しようとしても、どうしても他人とうまくやれませんでしたから、やめました。それだけです。他に一切何もありません。そういうことが無意味でつまらないし、非倫理的なのだとしても、私が他人や社会に関心がないのは端的な事実です。私の意見は、たとえ放射能が危険なのだとしても、命が惜しい人は避難すればいい、というだけです。それ以上の考えはありません。

ジャズといっても、6000枚聴いたとしても、最終的にパウエルです。客観的にいって、「クレオパトラの夢」がパウエルの最高の達成ではないでしょうが、でも個人的に好きです。貧乏でも、新譜は買います。ここ数ヶ月の記憶を辿りますと、エンリコ・ピエラヌンツィ、ミシェル・カミロ、西山瞳、坂田明、さがゆきの新譜を買って聴きました。4月、5月に出る菊地雅章山中千尋Amazonで予約しました。けれども新人ジャズ・ピアニストを例外も差別も分け隔てもなく全員チェックするのだとしても、最終的に自分に大事なのはパウエルです。

鎌田哲哉が、杉田俊介大澤信亮、三ツ野陽介、それに私を一纏めにして、物書きとしてものにならなかった、と酷評しましたが、その鎌田哲哉は、私が物書きになりたい気持ちがそもそもないのだということには少しも気付かなかったようです。鎌田哲哉はインターネット(ブログ、SNSTwitterなど)が嫌いなようですが、私にはブログを更新することにしか興味がありません。杉田俊介大澤信亮はそれぞれ著書も批評的な仕事も沢山ある物書きですし、三ツ野陽介も東浩紀ゼロアカ道場に参加したり鎌田哲哉の『web重力』に投稿したりして物書きになろうとしていますが、でも私自身はそういうことを一切やっていませんし、やるつもりもありません。

ちなみに、三ツ野陽介が『web重力』に投稿してしまったのは軽率だと思いますし、『web重力』の彼の文章も実にくだらないとは思いますが(それはすが秀実花咲政之輔らがやっている早稲田大学学生運動モーニング娘。の"Love Machine"を結び付けてしまうというどうしようもない発想の『革命は続いているか?』とかいうエッセイです。私は個人的にすが、花咲、彼らの運動が大嫌いですが、そういうことを別にしても、「革命は続いているか?」などというつまらないことを三ツ野からいわれたくありません)、ただそれだけの理由で鎌田哲哉が彼を罵倒してしまうのが理解できません。『web重力』への寄稿者を全員罵倒して残酷にやっつけてしまうくらいなら、そもそも原稿を公募したりすべきではないと思います。

私が三ツ野陽介を軽蔑するのは理由がないことではありません。彼はNAMに入ってきましたが、NAMに入るのが物書きになる近道ではないかなどと考えていただけだったのです。彼はNAMの学生セクションの代表者だった人に向かって、あなたには物書きになって偉くなりたい野心はないのか、などという実にくだらない失礼なことをいって、怒らせてしまいました。そういう「野心」しかない人間を私が嫌うとか、自分とは無関係だと考えるのは当然です。

鎌田哲哉は、私が『Q-NAM問題』とかいうくだらないものを『重力03』のために書いたから、物書きになりたいのかと誤解したかもしれませんが、そもそも私の執筆の動機は、紛争について書くことが私の「倫理的義務」であるなどと鎌田哲哉から恫喝され脅されたということだけで、他に一切何もありませんでした。『Q-NAM問題』で物書きになれるとか偉くなれるなどと妄想してしまうならば、それはただ単にどうしようもなく現実認識能力がないというだけでしょう。

三ツ野陽介についていえば、物書きになりたいなら、NAMに入るよりゼロアカ道場に応募するほうが遥かに現実的だというのは当たり前です。『web重力』にうっかり投稿してしまったから、鎌田哲哉にひどい目に遭わされた、とかいうのは、私にはどういうことなのか全く分かりません。

ついでにいえば、鎌田哲哉が(故)武井昭夫のHOWSの『社会評論』にろくでもない文章を寄稿して、Google検索で訪問者、読者が増えるからというような理由で、私がブログに「鎌田哲哉」と書くというただそれだけのことが売名行為であるなどと非難しているのは、的外れです。ブログに名前を書かれることすらいやな人はそもそも公開的にものを書くべきではないし、それに私をやっつけたりすべきではありません。自分が他人を罵倒するのは平気でも、言い返されるのは不愉快だ、とかいうのは、ただ単にどうしようもない自分勝手、我儘です。

鎌田哲哉が自分はNAMと関係ない純粋なQ会員だから善であるなどと主張するのは、虚偽であり欺瞞です。そこまでいうのなら、彼は、自分自身が、山城むつみ蛭田葵、飛弾五郎とともに「NAM設立準備会」に入っていたこと、花見を邪魔されたのが不愉快であるというようなただそれだけのくだらない理由でやめたのだということも自分で公開的に書いて認めるべきです。それにそもそも彼がQにやってきたのは、親友の西部忠から助太刀を頼まれたからというようなどうしようもない理由からでしかありませんでした。

それに、鎌田のことなど書きたくありませんが、もう少しいうと、助太刀を頼んだはずの西部忠が、鎌田哲哉をQの監査委員からリコールしようとして失敗してしまい、そのために自分自身がQ管理運営委員会を辞任してしまった、というような経緯の意味を鎌田哲哉自身が熟慮すべきです。もし鎌田哲哉柄谷行人やNAM会員全員をやっつけるということだけでなく、本気で地域貨幣普及に取り組む姿勢が少しでもあったなら、そういうことにはならなかったはずです。けれども現実は違いました。

でも本当はそういうこともどうでもいいのです。私に大事なのは、ドゥルーズと、そしてパウエルです。

そうはいっても、ジャズ・ピアノばかり聴くわけでもありません。今は"Chet Baker Sings"を聴いています。たまにはChet BakerのVocal, Trumpetもいいものです。

平岡正明は、Chet Bakerを大いに評価していました。彼は、Modern Jazzの本流であるCharlie Parker, Miles Davisに対抗できるものが何かあるとすれば、それはChet Bakerだと考えました。

私自身は、Chet Bakerがそこまで偉いのかというのは、ちょっと分かりません。

それに平岡正明Chet Bakerを評価した理由も、彼のVocalがオカマ声だからというようなことでしたが、実際のChetはばりばりの異性愛者でしたから、余りそういうことも関係がないことでした。私は未見ですが、Chet Bakerの伝記映画(ドキュメンタリー)があるようです。

鎌田哲哉が他人に「フリーター右派」などという勝手なレッテルを貼り付けて批判したつもりだったとかいうこともどうかしています。私は、フリーター全般労働組合をとっくに辞めていますし、フリーターですらなく、無職、或いは自営業者(「芸音音楽アカデミー」の経営者)です。彼がプレカリアート運動、非正規労働者の労働運動を本気で批判したいなら、もっとまともで有意味なやり方があったはずです。彼はただ、偶然個人的に知っていただけの連中をやっつけてみたというだけのことです。

「岡山人民映画会」のweb-siteを丹念に再読してみましたが、削除されたのかなくなっていましたが、鎌田哲哉が、「貧乏、貧困などといっても今日喰う飯はあるのだろう」などという意味のどうしようもなくくだらないことをいっていたのは端的に事実ですから、そういう彼に反貧困運動や非正規労働者の労働運動を批判したりする権利や資格は少しもありません。

NAMについて書くととめどもないのでやめておきますが、最後にひとつだけ。現在も、飛弾さん、根本さんといったNAM残党が柄谷さんと行動を共にしていると昨日、聞きましたが、地獄に堕ちろ、と思います。反原発デモは正義でしょうし、飛弾さん、根本さんが善人なのはよく知っています。けれどもそういうことは、彼らが柄谷さんと一緒に地獄に堕ちなくても許される理由には少しもなりません。私も、彼らのような人々が地獄に堕ちればいい、と思うくらいには意地悪になってしまったということですが、別に私がそう思っても、彼らに実害はありませんから、いいと思います。けれども、柄谷さんは高齢ですから、そう遠くない将来に死ぬでしょう。そうなってしまったときに、彼らはどうするのでしょうか。私には分かりません。

私は岡崎さん、王寺さんも憎むくらいですから、飛弾さん、根本さんを呪うのも当たり前です。それは思想、理論、倫理の問題などではなく、私の個人的で最終的な結論です。

Now Playing: Bud Powell Trio "Jazz At Massey Hall Volume Two".

ジャズ・アット・マッセイ・ホール Vol.2+6

ジャズ・アット・マッセイ・ホール Vol.2+6

【いーぐる掲示板への投稿:Jazz Piano, Bud Powell
私は貧乏人ですが、日本人Jazz Pianistの新譜だけは必ず買います。後藤さんが言及している菊地雅章の新譜も予約しましたが、どうもAmazonでは4月か5月にならないと入手できないようです。新譜といえば、西山瞳の2枚同時発売のものも買いました。山中千尋の新譜(5月だったでしょうか)も予約しました。

けれども最終的に私が立ち戻るのはBud Powellです。それも全盛時のものではなく、"The Scene Changes"です。理論的理由は何もありません。個人的に好きなだけです。

そうはいっても、Powellを"The Scene Changes"に限らず幅広くあれこれ聴きます。今は"Jazz At Massey Hall Volume Two"を聴いています。Powellのことを考えますと、彼の全盛時代は余りに短かったと感じます。Charlie Parker以上に幻のMusicianなのではないでしょうか。1953年までといわれますが、1953年の復活は奇跡だとしても、やはりそれ以前でしょう。1951年ですらないかもしれません。そうしますと、"The Bud Powell Trio"(邦題『バド・パウエルの芸術』)と"Stitt / Powell / J.J."しか彼の絶頂期の演奏を窺える記録はないことになります。

多くのPowellの愛好家が後期、晩年を愛するのも、事実上彼の記録の大多数が後期、晩年ということになってしまうからでしょう。Powellを愛するということは、後期の彼の音楽を愛するということになってしまいます。我々は遺された記録を通してしかPowellを知ることができませんから、それも致し方がないことでしょう。

【投稿終わり】

ドゥルーズは音楽論を書きましたが、ブーレーズ論です。彼はブーレーズ、ケージ、ヴァレーズなどへしか興味がありませんでした。パリでジョン・ケージの音楽会が開かれたとき、彼は最前列で熱心に聴きました。それほどまでに現代音楽が好きだったのですが、最終的にケージよりもブーレーズ(「管理された偶然性」)に優位を認めていたようです。

千のプラトー』ではロマン派の音楽が取り上げられますが、それは元々ガタリの関心事です。

ドゥルーズが、ビートルズボブ・ディランパティ・スミスに言及したとしても、ポピュラー音楽への関心はありませんでした。ジャズに言及したことことはその全ての著作のなかで一回もありません。彼は、フィッツジェラルド、ケルアックといったジャズの崇拝者の文学が好きだったのですから、ちょっとおかしいと感じます。

ドゥルーズだけではなく、フーコーにも音楽論やジャズへの言及は皆無です。絵画論はあります。ルネ・マグリットを論じた『これはパイプではない』は有名ですし、フロマンジェ論もあります。『言葉と物』がベラスケスの『侍女たち』の詳細な分析で始まり、それがその著作の基本思想を暗示しているというのはよく知られています。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%82%B9

ただの偶然でしょうが、フーコーの周りには自殺してしまう現代音楽の作曲家が何人かいました。まだ若く無名だった彼の同性愛の恋人は将来を嘱望されていた現代音楽の作曲家でしたが、自殺しました。フーコーの晩年のことですが、或る現代音楽の作曲家が自殺しましたが、フーコーは、どういうわけか、彼は絶対に幸せに死んでいったのだ、と力説していました。とりたてて何の根拠もなかったはずです。フーコーが厳密にみえても、彼の断言に根拠がない場合が結構あります。

デリダにも音楽論、ジャズ論はないはずですが、彼はオーネット・コールマンのファンでした。或る晩彼は、オーネットのライヴに行き、感激の余り、何を思ったのかステージに上がってしまいました。オーネットの聴衆はデリダなど知りませんから、ブーイングの嵐だったそうです。彼はオーネットと対談したし、邦訳されましたが、雑誌に載っただけで、単行本になっていませんから、一般の人々が探し出すのは非常に困難ですし、私自身も読んでいません。デリダとオーネットの対談は話が噛み合わなかったそうです。オーネットは哲学者ではありませんし、フリージャズの「自由(フリー)」について素朴に考えていたようですが、そこが話が合わなかったようです。オーネットは「ハーモロディクス理論」を考えましたが、デリダがそれを無条件に支持しただろうとはちょっと考えられません。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3

私はこういう現実を無視した自分勝手で無根拠な意見には絶対反対です。現実をいえば自由即興はジャズと密接な繋がりがあります。デレク・ベイリーエヴァン・パーカーセシル・テイラーと共演していますし、ジョン・ゾーンの存在をどう考えるのでしょうか。革命の時間性など音楽に何の関係もありません。市田良彦という左翼哲学者がそう思い込みたいだけです。「市田良彦講演より:ジャズというアメリカ的ルーツを引きずる観念を脱ぎ捨て、フリー・インプロヴィゼーションにそれが成長しえたのは、革命の時間性が世界的に共有されていたから、遍在していたからのように思えてなりません。」https://twitter.com/#!/jasmim_info/statuses/117404855026450432

Bud Powell With Johnny Griffin "Hot House".

Hot House

Hot House

Bud Powell (Piano), Pierre Michelot (Bass), Kenny Clarke (Drums), Zoot Sims (Tenor Saxophone) "Live At The Blue Note Cafe, Paris 1961".

Live at the Blue Note Cafe Paris 1961

Live at the Blue Note Cafe Paris 1961

Now playing: Bud Powell Trio "Live in Geneve 1962".