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朝日新聞を読みましたが、3.11以降はソクラテス以前の哲学者達だけが読むに値するという柄谷行人吉本隆明には「価値一般」を思考する「経済学」があったという中沢新一がわけがわかりません。そんな話は嘘だと思います。

吉本隆明が『言語にとって美とはなにか』を書いたとしてもそもそも妥当ではないし、言語学の対象と経済学の対象を「価値」ということで同列に考えてしまうこともできません。経済学と言語学を並行的に考えるというのは、『テル・ケル』のフィリップ・ソレルスがそう考えたし、そもそも戦前にヴァレリーが『資本論』をそのように読みました。けれども言語を商品に類比するのは間違っていると思います。

言語、例えば「青」という言葉には一定の意味や価値、意味価があります。そして、商品にも価値があるでしょう。でも同じ「価値」という用語が使われているからそれらが同じに取り扱えるなどということはいえません。

それに田川建三が『思想の危険について』で吉本隆明を批判していましたが、『資本論』の最も基本的で簡単な理屈すら吉本隆明は理解していません。マルクスの労働価値説は、投下労働時間がそのまま生産された商品の価値になるというようなリカードゥの意見とは異なり、社会的に規制され支出された「抽象的人間労働」がその商品の価値を決定するという話でしたが、そういうことはただ単に普通に読めば分かるはずですが、吉本隆明は理解していませんでした。

社会的に規制され支出された「抽象的人間労働」がその商品の価値を決定するというのをごく簡単にいえば、例えば私が或る商品を生産するのに3時間掛かったとしても、社会的、平均的にいえば多くの労働者は1時間で作ってしまうのであれば、その商品に内在する労働価値は労働時間3時間分ではなく1時間分にしかならないということですが、そんなことは当たり前の常識です。それにそのように考えたとしても、それでも労働価値説が妥当かどうかは分かりません。

柄谷行人の意見についていえば、イオニアの自然哲学にまで遡るのが根源的なのだというようなことなのでしょうが、タレスアナクシマンドロスを幾ら読み込んでもどうみても原発と一切関係がない話だというのは自明です。