近況アップデート

朝日新聞夕刊は死んだ吉本隆明を絶讃していますが、私は疑問です。私自身は個人的に吉本さんの愛読者ですが、けれども彼の主張の大体70%くらいは間違っていると考えています。「子供の自殺は親の代理死」とかは意味不明だし、吉本さんの本を全部読めば多くの疑問を感じるのが当然です。『マス・イメージ論』に入っている反核運動批判や『「反核」異論』などに朝日新聞の記者連中は少しの疑問も批判もないのでしょうか。私は、吉本さんが(国文学から出発した橋本治も同じですが)自分の頭で考えたとか輸入学問を拒否したとかいうことと、主張そのものが合理的かどうかは別問題だと考えます。吉本さんが自分の頭で考えたとしても、意味不明なものは意味不明だし、無根拠な独断は無根拠な独断だというしかありません。それに吉本さんがその昔『朝日ジャーナル』の筑紫哲也などを憎悪して罵倒し続けたのを朝日新聞の記者連中は忘却してしまったのでしょうか。

吉本さんは自分はマルクス主義者ではなくマルクス者だなどといいましたが、そんなことはありませんでした。彼が『言葉と物』に感激したのは、マルクスが完璧にリカードゥと同じエピステーメーに属するなどと相対化されていたからですが、『言葉と物』にせよフーコー総体にせよ、それだけの話ではないというのは当たり前です。だから、吉本さんがフーコーとの往復書簡を望んでフーコーに自分勝手なヘーゲル論を送り付けても返事がくることがなかったのです。

吉本さんがフーコーを絶讃したがドゥルーズ=ガタリを批判したのは、ごく普通に読めば『アンチ・オイディプス』も『千のプラトー』もマルクスからの引用だらけなので、ドゥルーズ=ガタリフーコーと違ってマルクス主義のしっぽを残しているなどと考えたからでしたが、そういう吉本さんはただ単に実は自分はマルクス主義は大嫌いだと率直にいえばよかっただけです。

そもそもの吉本さんの動機は戦前のプロレタリア文学やプロレタリア芸術の理論が粗雑でくだらないから否定するということであり、初期から最晩年の「芸術言語論」に至るまでそうですが、だったらプロレタリア文学にこだわらず普通の文学(ブルジョア文学)をやるだけで良かったはずです。事実彼は武井昭夫よりも江藤淳のほうが遥かに有意義だと考えたし、そう公言していました。

吉本さんが死ぬまで原発を肯定していたのは、科学技術の問題は科学技術の進歩で必ず解決できるはずだと信じていたからですが、彼が理系の技術者であったとしても、理系の技術者であったことがあるから科学技術について正しく判断できるのだとはいえません。

朝日新聞の記者連中にしても、3.11以降も吉本さんの原発や科学技術についての意見が変わらなかった事実を指摘すべきでした。3.11の後、糸井重里が状況が理解できなくなって困惑したから吉本さんに会いに行ったのもわけがわかりません。吉本さんの考えが常に正しいわけでもないでしょう。

私には理解できないことですが、糸井重里の場合、自分で処理できない難問に出会ったら、吉本さんに会いに行って彼に考えてもらうというようなことだったのでしょう。そこまで吉本さんを信頼できるのはすごいですが、でもそれではもう文芸評論ではなく宗教と同じです。そうはいっても、吉本さん以降柄谷さんも類似の存在になったし、実はフランス人も同じです。勿論、フランス人全員ではなくごく少数だったのでしょうが、68年5月のパリ革命以降、フーコードゥルーズに「政治的解決」を期待してしまった人々がいたそうですが、フーコードゥルーズにせよ神ではないので、そういう過剰な期待や幻想に応えることができるはずもありませんでした。

‎68年革命のとき、「ミシェルとジル …の犠牲者」という落書きがあったそうです。フーコードゥルーズが何の犠牲者だったのかは分かりませんが、ただ確実なのは、フーコーが『言葉と物』があそこまで広く売れ、広く読まれるなどとは予測しなかったということです。彼が『監獄の誕生』などを書いたのは彼なりに状況に対応したいと考えたからではないでしょうか。もしそうでなければ、フーコーなら『臨床医学の誕生』や『言葉と物』のような本を一生書き続けていればよかったし、ドゥルーズなら『ニーチェと哲学』のような本だけ書いていればよかったでしょう。そうであれば全く平穏無事な一生だったでしょう。そういうとしても、別に、『アンチ・オイディプス』が合理的に読解可能だとか、何か政治的な意味があるなどといいたいわけではありません。『アンチ・オイディプス』が売れたのだとしても、私はそういうことには強く疑問です。

ガタリは活動家だったから政治のことを考えたでしょうが、ドゥルーズが政治について考えていたことというのは、私にははっきりとは理解できません。彼が東西冷戦の後、世界中で地域紛争が生じるであろうと予測し、事実そうなったということは確かですが、そのことが彼の哲学と関係あるとは思えません。

ドゥルーズについて確実にいえることは余りないように思います。彼がPLO、それも激しい武装闘争をやっていた時期のPLOを支持していたというのは確実です。左翼には「同伴者」が必要だと考えていたことも確実です。ドゥルーズの邦訳では「旅の道連れ」などとなっていますが、文脈からみて日本語の政治用語では同伴者と呼ばれるようなものだというのは恐らく確かでしょう。それ以上のことは全く何も分かりません。フロイトラカン精神分析構造主義を批判したとか、晩年に「この世界への信仰」が必要だと考えたというようなことに政治的な意味があるとは私は考えません。

ドゥルーズフーコーにドイツの赤軍の弁護士の救援署名を頼んだとき、フーコーはそれを断り、彼らは絶交してしまいました。この事実から推測できるのは、晩年のフーコー極左的な政治から距離を取ろうとしたのだろうというようなことです。ドゥルーズは友情を回復しようとフーコーに手紙を送りましたが(「欲望と快楽」)、返事はありませんでした。ということは、或る時期のフーコーは極めて過激で暴力的な政治思想を持っていたということです。著作だけをみてもそれは分かりませんが、『思考集成』に入っているチョムスキーとの対談のようなテキストを読むと分かります。

はっきりいえば、チョムスキーの意見は現在の柳原さんのようなものです。人民法廷、世界市民法廷を開けばいいと考えています。他方、フーコーは法廷とか裁判などといった形式そのものを否定してしまいますが、そのようなフーコーの考えが驚くほど暴力的であるのはその対談を読めば分かります。彼は司法手続きを踏まずに人民の暴力が爆発して権力者などを殺戮してしまってもそれでいい、と考えています。そういうことにチョムスキーのほうは驚愕しています。

理由ははっきりしませんが、フーコーはそういう自分の考えを晩年に修正しようとしたようです。けれども、彼が最終的にどういう政治思想に到達したのかは結局不明です。「生存の美学」というのはとりたてて政治的とはいえないようにも思います。

『性の歴史』の2巻と3巻を読んでもフーコーの意見はよく見えてきません。それまでの彼とは違うことは分かりますが、それ以上のことはよく分かりません。彼は「自己」という概念を積極的にいうようになりますが、その最終的な意味は不明です。ドゥルーズはその「自己」をハイデガーや彼自身の「襞(折り目)」という概念に引き付けて解釈しますが、フーコー自身はそういうことは一切いっていませんから、強引な解釈なのでしょう。ですが、強引な解釈でもしないと、どういうことなのか全く見えてきません。

話は変わりますが、財津理がガタリに面と向かって、あなたのいう分子革命とかいうのはただのユートピア的な夢想なのではないのか、というような非常に失礼なことをいったそうです。ガタリは否定しましたが、でもそう思われても仕方なかったと思います。財津理というのは政治的意見が一切ない人ですが、それでもその彼がいうように、分子革命やマイクロポリティクスといった考えの有効性は疑問です。

フーコーの政治についての考えはガタリのような人が考えたほど健康でも健全でもなかったはずです。例えば、フーコーは、イランの人民が大規模なデモを繰り返して最終的にシャーを追放してしまったことを称賛しています。けれどもジャーナリストとしてイラン現地に飛んで取材していたフーコーには分かっていたことでしょうが、最終的に革命が成功するまでには権力にデモが弾圧されて膨大な数の人々が殺されています。フーコーがデモを肯定するのはそのような暗部や犠牲を含めて肯定しています。このことに限らず、フーコーを読むたびに感じますが、彼の書くものからは死の匂いがします。その死の匂いというのが具体的にどういうことなのか明確な言葉ではいえませんが、それは初期から晩年にいたるまであるように思います。

それにフーコーイラン革命の支持については慎重に考える必要があります。革命当時には多様な可能性があったのかもしれませんが、最終的にホメイニ体制が確立されました。以降、イランはイスラム法学者が統治しています。そして、そういうことは後になって判明した事実かもしれませんが、例えば革命後、大量の同性愛者がイスラムの教えに反するという理由で処刑されています。そういうことでいいのかというのはよく考える必要があります。例えば、ガタリはイランを宗教的な原理主義でありファシズムのようなものだと考えました。それはそうかもしれませんが、けれども彼は、彼が称賛してやまないフーコーイラン革命を熱烈に支持した事実をどう考えるのでしょうか。

革命当時には多様な可能性があったというのは、例えばシャリアーティーのような人々がいたけれども、最終的に排除され、ホメイニのヘゲモニーが確立されたというようなことです。シャリアーティーの思想には、イスラム思想、マルクス主義実存主義サルトル)のアマルガムだというような批判があるようですが、私自身が読んだ限りでは素晴らしいものです。少なくともホメイニよりはましだったでしょう。

私はガタリに限らずアメリカ、ヨーロッパの知識人にイランの宗教原理主義を非難する資格はないと思います。確かに女性や同性愛者の権利がないのはひどいでしょうが、イスラム原理主義にならなければアメリカの支配に抵抗できなかったのではないでしょうか。私はろくに現代史を知りませんが、イラン・イラク戦争などでも、イスラム革命が中東全体に波及するのは都合が悪いといった勝手な理由で、アメリカはイラクを支持したのではなかったでしょうか。当時のイラクフセイン政権のバース党世俗主義だったはずです。後にフセインが自分がイスラムに忠実なふりをしたとしても、それはポーズであり、フセインの本質は世俗主義であったと思います。ジジェクのような左翼がイスラム原理主義を支持するのは現実問題として他にろくなアメリカへの対抗が存在しないからです。

私自身は同性愛者ですから、イスラム原理主義でいいのだとか、イスラム原理主義が素晴らしいのだなどということはいえませんが、それでもアメリカが多少脅威に感じるというくらいにはイスラム原理主義は革命的であると思います。そしてそれ以外にまともな対抗手段はないはずです。9.11の後、柄谷行人コロンビア大学の自分の学生(アラブ人)がNAMの原理や『トランスクリティーク』を読んで耐えているなどといっていましたが、どこからどうみてもNAMなどよりもアルカイダのほうに現実的な意義があります。

アリー・シャリーアティーイスラーム再構築の思想 新たな社会へのまなざし』(櫻井秀子訳・解説、大村書店)を図書館で予約しました。

結局杉原さんがメールで書いていた「私には夢がありました」ということだけが懐かしく思い出されます。それ以外のことは私にはどうでもいいようなことでした。そして、彼の夢というものの内容は、遂に分かりません。

西部さんが杉原さんと絶縁するために最後に書いた超長文メールで、君がどういう仕事をやっているのか知らないが、自分がつらい労働をやっているからといって労働者一般がそうだと思い込むべきではない、という意味のことを書いていました。そういうくだらないものを送り付けられたこの私は、杉原さんがどういう仕事をやっているのか具体的によく知っていました。

西部さんも杉原さんも彼らのやりとりをとっくにQをやめていた私に送り付けてきましたが、そういうことをされて私が不愉快に感じるかもしれないというようなことは少しも考えませんでした。西部さんの経済学の細かい話には何の興味もありませんでしたが、彼が長年NAMやQの委員会を一緒にやってきた杉原さんのことをまるで具体的に知らなかったしまた知るつもりも最初からなく、さらに、そういうことが社会運動や政治がどうのという以前に人間関係としてちょっとおかしいのではないかとも感じていないという事実に改めて驚いたし呆れてしまいましたが、でも、西部さんというのはそもそもそういう変わった人でした。

その杉原さんにしても、「経済学の理論で正当化できないからフリーター労組の運動を否定する」とかいうしょうもない人でした。私にはそういう考え方が理解できません。

彼が「経済学の理論で正当化できないからフリーター労組の運動を否定する」というようなことを私が不愉快に思うし腹を立てると考えなかったということにちょっとびっくりします。それは観念的、理論的とかいう話ではないのではないでしょうか。

最終的に経済学の理論以外何も興味がないような西部さん、杉原さんを私は少しも理解できませんが、それでも、「小学校の校長先生のようですが」とかいう西部さんの演説はよかったし、杉原さんの「私には夢がありました」という話にも感銘を受けたというのは事実です。私自身は経済学に興味がなく、もっといえば嫌いですが、そうであってもそういうどうしようもなく些細で無意味なことを通じて彼らの人柄に触れたことだけは良かったような気がします。