近況アップデート

オルグショルティ指揮のシカゴ交響楽団で、マーラー交響曲第5番「葬送行進曲つき」。先日カラヤンで聴きましたが、廉価盤とはいえこれもいい演奏です。

バークリー僧正は主著の『人知原理論』で、存在するとは知覚されることであると主張したわけですが、彼の場合、信仰がありますから、最終的に世界の存在は神が保証しています。けれども信仰がない人の場合、どうなってしまうでしょうか。

バークリー僧正には、後期に、邦訳がない対話篇で面白いものがあります。それと、死ぬ間際には、タール水とかいうものに嵌ってしまいました。それは現代におけるホメオパシーの流行のようなものだと考えればほぼ妥当だと思います。バークリー僧正はタール水に本当に医療的な意味があると考えていたわけですが。

ニーチェが価値があるといいましたが、彼の本を読んでものを考える意味があるだろうということですから、彼のいっていることが全部妥当だというわけでは当然ありません。「出来損ないはとっとと死ね」という意見に躊躇なく同意できる人も少ないと思います。

ハイデガー哲学史も強引ですが、ニーチェ哲学史解釈にも首を傾げてしまいます。彼はロックは浅薄だとかいいます。そうかもしれませんが、変に「深遠」でないのがいいのではないでしょうか。ルソーには沢山の悪意があるとかいいます。そう思いますが、そういってルソーを否定してしまうのは要するに近代人全般が嫌いだということです。

それから飛躍しますが、ドゥルーズがカントは時間の哲学者だと語るとき、全面的にハイデガーの解釈に従っておりそれへの批判的な吟味が全然ないわけですが、彼は別にカントの専門研究者ではないからそれでよかったのでしょうが、一般読者としてはそういうことでいいのだろうかと疑問を持ってしまいます。私はカントをドイツ語で読んでいませんが、確かに無理矢理に強引に読めばそういう結論を導出できなくもない箇所もあるような気もしますが、そうはいってもそれはやはり乱暴な解釈というほかないと思います。

ハイデガードゥルーズは、カントにとっては時間は内観(内感)の形式でしかないのに過剰な意味を読み込みます。そして、超越論的構想力(想像力)が統覚よりも優位だとは考えられませんが、そういうふうに考えてしまいます。カントが『純粋理性批判』を第一版から第二版に書き改めたのも、統覚が優位にあるという彼の意見を明瞭で誤解の余地がないようにするためでしたが、ハイデガーは第一版で考えるのです。

ハイデガー哲学史講義というのはなるほど精緻なのでしょうが、導き出される意見には疑問です。『シェリング講義』は精読していないから何もいえませんが、平凡社ライブラリーの『ニーチェ』の基本的な主張は、ニーチェは西洋の形而上学の完成者なのだということであり、ハイデガーはそのような「完成」に当然批判的なのですが、そのこともハイデガーの捏造だと感じます。ハイデガーの考えでは、ニーチェというのはプラトン主義をただ単にひっくり返してみたというだけだということになってしまいますが、それだけではないような気がします。

ハイデガーの表現は極論で過激だから却って支持する人が多いということはいえると思います。「無が無化する」とかいわれると、なんとなく深遠な意味があるのではないかなどとつい考えてしまいます。論理実証主義のカルナップはハイデガーのドイツ語を分析してみて完全にトートロジーで何も主張していないので無意味だといいましたが、哲学のテキストというのは論理学的に有意味でなければ価値がないのかというとそういうことではないとは思います。ですが、ハイデガーのいうことが極端なのでついていけないと感じる場合がよくあります。確か『形而上学入門』だったでしょうか、存在(有)はそのままで無なのだ、とかいっていて、私には何のことだかさっぱり分かりませんでした。

とはいえ、そういう細部の解釈問題は別に、お経のような翻訳だとよく悪口をいわれますが、ハイデガー全集は全部完結すれば全100巻くらいになる予定のはずです。それは内容以前にそれだけの分量があるということが凄いです。トマス・アクィナスの『神学大全』が全100巻くらいあるというのといい勝負です。

ただ、下手をすれば神秘主義になってしまいますが、文章を書くということに意味がどこまであるのかということをトマス・アクィナスの場合考えてしまいます。彼は膨大な『神学大全』を書き続けていましたが、晩年に突然、宗教的な啓示体験があり、自分が書いているものには何の意味もないと感じて執筆をやめてしまい、そのまま死んでしまいます。けれども他者(第三者)にはトマス・アクィナスが体験した啓示が具体的にどのようなものであったかは一切分かりませんし、もし仮に分かるのだとしても、キリスト教の信仰がない人間に意味があるのかは疑問です。

例えば西田幾多郎であれば、東洋とか仏教的な文脈で無を語ったのでしょうが、ハイデガーのいう無というのは意味がよく分かりません。サルトルの『存在と無』は、サルトルの前提を認める限りはそれなりに理解可能だと思いますが、ハイデガーが語る逆説的な表現はよく理解できないというか、どうしてもそういうところに引っ掛かってしまいます。

サルトルは合理的とかいっても、彼の意見では人間のどんな企ても最終的には挫折するのだというようなことを「論証」してしまっていますが、本当にそういうことなのだろうかというのは強く疑問に思います。

ちなみに学部生の頃、中世哲学のレポートを書く必要があって、世界の名著で『神学大全』を読みましたが(なぜなら全100冊もあるようなテキストを夏休みの間に読破するなどということは不可能だからです)、非常に退屈で不愉快な経験でした。私は神の話が聞きたくないので、中世哲学には全く向いていないと思います。勿論中世哲学、スコラ哲学とかいっても、キリスト教と関係がない人には全く無意味だというようなものでもないと思います。けれども彼らの関心が何よりも神にあるということだけは確実だと思います。

稲垣良典の『天使論序説』とかも読まされましたが、こういうものが哲学なのかと思うとちょっと絶望感を感じました。自分には何のリアリティも興味もなかったからです。

それから中世の哲学者の多くは(というのは、神秘家を除けばということですが)、叙述形式が決まっています。どういうふうに決まっているのか詳しいことは忘れましたが、確か、問題集というか一連の問いがまずあって、それに注釈したり応答していくというかたちで議論を進めるのが一般的だと思います。ベーコン、デカルト以降の近代哲学の叙述に慣れた人にはそれは非常に読みにくいです。例えばドゥンス・スコトゥスの一部の翻訳が哲学書房から出ていたと思いますが、内容以前に叙述形式が非常に読みにくいです。

ついでにいえば、ドゥルーズが、トマス・アクィナス実在論実念論)でもウィリアムのオッカムの唯名論でもなく、ドゥンス・スコトゥスを支持したということの意味もよく分かりません。例えば多くの中世哲学哲学者は、オッカムの唯名論は堕落であると考えます。私はそうは思いません。中世思想のなかではオッカムの考えは合理的に支持できると思います。でもそのように考える私は中世思想とは無縁だということかもしれません。

けれども研究者的にはここ数十年で一番研究していて面白いだろうというのは中世のような気がします。例えば、イスラーム世界やアラブの哲学者との影響関係や交渉など興味深い研究テーマが沢山あります。中世ヨーロッパには古代ギリシャ哲学、特にアリストテレスはアラブ経由で入ってきていますが、そして、中世哲学のなかでもプラトン主義を重視する流れとアリストテレス主義を重視する流れがあり、その複雑な絡み合いなどは確かに面白いし、それを研究する仕事を手がけるならば人間の一生の時間などあっという間に終わってしまうだろうとも思います。

ドゥルーズも『意味の論理学』で参照していますが、アラブの哲学者の思索というのは結構面白いんですね。勿論日本語で読める文献は少ないと思いますが。

ドゥルーズが参照していたイスラーム哲学者はイブン・スィーナーという人でした。Wikipediaで確認したら、ラテン名アウィケンナ(Avicenna、英語読みのアヴィセンナも普及している)とのことですが、『意味の論理学』の邦訳ではアヴィセンナとして出てきたように思います。

イスラーム哲学については井筒俊彦の一連の著作を読むしかないわけですが、井筒俊彦の解釈で理解していいのかどうか分かりません。ただ、アラビア語から学び直してくれとか言われても自分にはできないということだけは分かります。

ドゥルーズのいうことには風変わりなことが多いです。例えば彼は言語学について、ソシュールでもチョムスキーでもヤコブソンでも誰でもなく、イェルムスレウの言理学がいいと断言するわけです。スピノザ的なのだとかいいます。他方彼がラボフらの社会言語学を重視することは非常によく分かります。でもイェルムスレウの言理学がなぜそんなに素晴らしいのかは結局不明です。私はイェルムスレウも読んでみました。読んでみましたが、ドゥルーズがそんなに讃美するようなものとは違うように感じました。

一方でイェルムスレウ言理学がいいといい、他方でラボフの社会言語学がいいというのは非常に分裂しています。一方で極度の抽象やウルトラ形式主義がいいのだといい、他方で具体的で現実的な分析がいいのだというわけですから。世の中のドゥルージアンとかいう人々がそういうことをどう理解しているのか私にはさっぱり分かりません。

ドゥルーズに影響を受けた人で『意味の物理学』という本を書いた人がいます。私はフランス語で持っています。邦訳はありませんし、邦訳されることはないような気もします。結局よく分かりませんが、どうも、そもそも話される言葉の音響というような物理的な事実にまで戻って意味の生成を考えようということのようです。それは確かに凄いとは思いますが、専門的過ぎて言語学の素人がついていけるような議論でもありません。

今思い出しましたが、ドゥルーズに影響された現代物理学者でジル・シャトレという人がいます。彼の物理学書を買ったかどうか忘れました。多分買っていないと思います。そのシャトレが、政治の本、新自由主義批判の本を出しています。『豚のように生き考える』とかいう題名のフランス語の本で、当然邦訳はありません。私はたまに少し読みますが、なんだかなーと思います。それは新自由主義を批判したくなる気持ちも少しは分かりますが。

ドゥルーズに影響された物理学者とか、『混沌からの秩序』(みすず書房)のプリコジンだけだと思っていました。そのプリコジンの話もよく分かりません。どうも現代物理学はベルクソンホワイトヘッドドゥルーズが考えたような方向に進んでいるのだといいたいようですが、物理学をろくに知らない私には検証をすることができません。ただ、非常に大雑把な話だとは感じます。

プリコジンと一緒に本を書いている科学ジャーナリストのイザベル・スタンジェールはガタリの親友であり、『科学と権力』が邦訳されています。ただ、ガタリと友達なら、彼の科学概念の余りにもひどい濫用に苦言を呈するべきだと思いますが。スタンジェールは、ガタリにとっての倫理というのは、西洋人が伝統的に考えてきたような他者へ向かう倫理ではなく、自己と関わる倫理だったのだ、という意味のことをいっています。

『意味の論理学』でドゥルーズが全面的に使っているエミール・ブレイエストア派論が数年前ドゥルージアンによって邦訳されました。そういうことは素晴らしいとは思いますが、ただ、当時のストア派研究の限界があると思うし、哲学史家としてのブレイエがどうなのかということも考えなければならないと思います。ドゥルーズが褒めているからそれは全部素晴らしいのだというふうには私は思いません。その点では私は「ドゥルージアン」ではありません。ドゥルーズの考えとは距離があります。

『意味の論理学』が言及している、使っているというならばエティエンヌ・ジルソンの中世哲学研究もそうだし、ドゥルーズがそれを書いた当時のフランスの代表的な研究をあれこれ参考にしたという以上の意味はないと思います。

ジルベール・シモンドンという人は重要だし最近邦訳も出たかもしれませんが、彼の哲学というのはほとんど科学哲学のようなものにみえます。私がよく分かっているわけではないですが、例えばシモンドンの膜というような概念が、ドゥルーズのいう「表面(表層)」概念にとって決定的だとかいいますが、よく分かりません。

そもそもドゥルーズは後になって『意味の論理学』の表面(表層)と深層、言語と身体という二元論をさっさと撤回してしまいました。けれどもドゥルーズ自身の自己認識はどうあれ、『意味の論理学』の重要性は動かないでしょう。ジジェクドゥルーズ論には全然賛成ではないですが、『意味の論理学』が一番重要だという意見には同意します。

市田良彦の『革命論』(平凡社新書)を図書館で読んできたといいましたが、市田良彦ドゥルーズの『意味の論理学』に依拠しながら彼のいう革命を正当化しているのです。別にどういう議論をしてもいいと思いますが、そういうふうに存在論的な思弁と政治実践を直結させてしまう発想には深く疑問です。『意味の論理学』はなるほど深遠かもしれませんが、革命とかいう話と何の関係があるのでしょうか。

ジジェクドゥルーズ論『身体なき器官』についていえば、ドゥルーズシェリングである、シェリングは「弁証法唯物論」である、故にドゥルーズは「弁証法唯物論」である、などという話になってしまいますが、まずそんなことがあるわけもないし、ただ単に悪意を感じます。

ジジェクにとってドゥルーズの最悪の本はガタリと一緒に書いた『アンチ・オイディプス』です。でもそれは、「深層」を復活させたというような哲学的理由というよりは、ラカンが批判されているからラカン派として許せないというようなしょうもない話でしかありません。

國分さんはドゥルーズの最悪の本は『哲学とは何か』だとどこかでいっていたと思いますが、なるほど『哲学とは何か』は他の著作にみられるドゥルーズならではの哲学的生産性に欠けるという印象はあります。でも、それ以前に「最悪の本」などを探してもしょうがないだろうと思います。

そうはいっても私自身も、『哲学とは何か』の、哲学は概念、科学は関数、芸術作品は知覚対象(ペルセプト)、とかいうのはちょっと図式化が過ぎるというふうに思いますが。

ジジェクドゥルーズ評には明確な悪意を感じます。ジジェクによればこうです。実はユング自身が「リゾーム」という表現を使っていた。だから、ドゥルーズは(ドゥルーズ=ガタリは)ユング派なのだ、オカルトなのだ、とかいうのですが、しかし冷静に考えれば、ユングがその膨大な著作のなかで一回、「リゾーム」という単語を使ったことがあったからといって、それが何だというのでしょう。ドゥルーズユングだとかいうならば、もう少し丁寧で説得的な論証が必要だと思います。

ドゥルーズが死んでしまった後の哲学世界に興味がない、不満であるというのはそこで繰り広げられている議論に不満だということです。ジジェクバディウの悪意的なドゥルーズ論は勿論ですが、ネグリのいうことにも疑問です。彼は自分をフーコードゥルーズの後継者だと(別に誰からもそんなことは言われてもいないのに)勝手に考えており、そして「ポストモダンの哲学者」なのだとかいって胸を張るわけですが、そもそもフーコードゥルーズが自分はポストモダンの哲学者だなどと言うことはあり得なかったというごく基本的なレヴェルから決定的な誤解を感じます。

そのことを別にしても、例えばネグリは「現象学」という表現を肯定的に頻繁に使いますが、世間一般でいわれる現象学とは何か違うものを考えているとしか思えません。つまり、或る概念なり表現に自分勝手な定義をして勝手に使ってしまうということですが、そういうのはもう濫用というしかないのではないでしょうか。その単語に限らずネグリにはそういうことがよくあります。

つまり、いろいろな単語を世間の用法とは全く違う用法や文脈で使うからひどく分かりにくいし、意味不明になってしまうのですが、ネグリ自身はそのことへの自覚が全くないようです。

それから、ネグリのなかでは名著だと思いますが、『構成的権力』というのも、構成的権力=憲法制定的権力です。それはもともとのヨーロッパの言語ではそういう多義性があることは自明ですが、翻訳されると分からなくなってしまいます。

バディウについては、彼は難解な現代数学を頻繁に使うから私に分からないのは当然ですが、でも彼は自分がプラトン主義者だとか考えています。しかし、それはどこからどう見ても奇妙なプラトン主義だというしかないと思います。

ネグリはウルトラ主観主義、主意主義だから是非が議論になります。市田良彦もそのことをいっています。ただ、ウルトラ主観主義とかいう以前にいっていることがよく分かりません。彼のその昔の本で、ガタリと共著で、『自由の新たなる空間』というものがあります。丹生谷貴志が翻訳をしていますが、国家統合資本主義でしたっけ、そういう概念を考えることはいいと思います。けれども、最後はレーニンを引用しながら「愛」に訴えて終わるのです。ネグリはそれでいいと思っています。愛とかいうのを馬鹿にするのは政治的な反動だけだとか考えています。けれども私は彼のいうことにどうしても共感できません。それは『自由の新たなる空間』の昔から『スピノザとわたしたち』の今に至るまで同じです。民主制は愛の行為ですとか言ってどうにかなるなら、それほど簡単な話もないだろうと思いますが、そういうことがあり得るとは私は思いません。私は自分がとりたてて政治的反動とは思いませんが、ネグリには賛成できません。

どうしても悪口になってしまうのは致し方がないですが、ネグリが彼独特のスピノザ解釈(力能 / 権力)をいきなりそのままフーコーの生政治 / 生権力と結合してしまうというのも、これほど乱暴な議論はちょっとないだろうと思います。それでいてネグリフーコーに忠実なつもりなのです。そのへんがわけが分かりません。

さて、高橋悠治の『別れのために』を聴き終えることができました。お喋りも過ぎたようですから、そろそろ床に就こうと思います。皆様お休みなさい。どうか良い夢を。