近況アップデート

おはようございます。アルトゥール・ルービンシュタイン『火祭りの踊り〜ルービンシュタイン、アンコール・ピース』を聴いています。ホロヴィッツを全部聴いたので今度はそのライヴァルであったルービンシュタインというわけですが、ルービンシュタインは全部揃えているというわけでもありません。ホロヴィッツでは自作の「カルメン変奏曲」がコンサートのアンコール・ピースだったように、ルービンシュタインはファリャというそれほど著名ではない作曲家の「火祭りの踊り」という小曲を好んで弾いていました。良い曲だと思います。

火祭りの踊り?アンコール!

火祭りの踊り?アンコール!

【バッハ、高橋悠治
バッハはピアノ以外も全部ということならば聴いていない。
高橋悠治の文章がどうかというのは問題が確かにあるだろう。例えばジャズの全否定とか、自分がクラシックや現代音楽や「水牛楽団」をやっているからといって、何様なのかという感じではあるよね。ただ、彼の音楽で良いものが少しあるように思う。

そういえばバッハは、グールド、リヒテル(『平均律クラヴィーア曲集』)、高橋悠治(『フーガの電子技法』とかいうよく分からないものもあったね)、リパッティ(一部)、ブーニン(一枚だけ)で持っている。せめてグールドくらい揃えたいものだ。リヒテル平均律吉田秀和が褒めていたので買ったがなるほど良かった。
ピアノを離れるとバッハの晩年の宗教曲がとても素晴らしいらしいね。それも是非聴きたいが。金を儲けられたら買うよ。ただ、ミサ曲ロ短調だったかを小澤征爾で持っていたと思う。

高橋悠治について】
高橋悠治は最近のものは知らないが昔のものは全部読んだし、それなりにいいと思う。ただ、私は嫌いとか異論があるというわけではないが、ちょっとどうかと思う議論もある。
例えば高橋悠治は架空の人民裁判ベートーヴェンを断罪したりしている。私はそういう妙に「政治的(左翼的)」な発想でベートーヴェン(に限らずどんな音楽家でも)をやっつけるという行為がいやだ。
それにベートーヴェンを目の敵にするということ自体、余りに分かりやすい(しかし、非常にくだらない)音楽政治だというしかない。ベートーヴェンはヨーロッパ精神の代表であり(ゲーテヘーゲルと並んでベートーヴェンが近代ヨーロッパの代表的な精神であるということは事実だろう)、クラシック音楽の最高峰だから、故に否定するというようなことだ。そのようなことはつまらないと思う。吉田秀和メニューインから引いていたフルトヴェングラーの言葉ではないが、政治と音楽とは別だということだが、高橋悠治にはそういう基本的なことが最後まで理解できなかったようだ。だから先輩であり先生であった武満徹を残酷に苛酷にやっつけるということにもなった。勿論武満徹のほうは高橋悠治に何の悪意もなかった。高橋悠治がコンピューター、ピアノ、楽譜などを一時捨てて三里塚に行ったりしたというのも、極左的な観念論的倒錯というほかないだろう。私はそのようなものが正義とか倫理とは思わない。

【補足】
チャーリー・パーカーマイルス・デイヴィスがジャズの代表的な精神だから彼らを否定してみるというような人がもしいたら、馬鹿というしかないだろうが、高橋悠治ベートーヴェンを否定してしまうのもそれと同じくらいつまらないことだ。
例えばグレン・グールドベートーヴェンが好きではなかった。初期や後期(晩年)はともかく、一般的にこれがベートーヴェンの音楽だと考えられている中期(「熱情」など)が好きではなかった。けれどもグールドは中期のソナタも含めてベートーヴェンを多く弾き多く録音している。私はグールドのような人のほうがまともだと思う。

死の音楽といえばマーラーの『大地の歌』かショスタコーヴィチの最後の弦楽四重奏曲でしょう。特に後者を超えるようなものは20世紀には何もなかったと思います。現代音楽では高橋悠治の『別れのために』か『パーセル最後の曲集』でしょう。高橋悠治の政治イデオロギーに賛同しないとしても、それでも『パーセル最後の曲集』は素晴らしい音楽です。ジャズではMiles DavisDuke Ellingtonを追悼した"Get Up With It"でしょう。John Coltraneの最後のアルバム"Expressions"も挙げるべきでしょう。"Expressions"はFree Jazzですが、それまでのColtraneとは明らかに異質な静謐で寂寥感に満ちた音楽です。ジャズに限らずどのジャンルを探してもこのような音楽はないと思います。

Jazz PianoでいえばBill Evans "You Must Believe In Spring"が最高であり、誰もこれを超えられないと思います。死んでしまった元妻、自殺した音楽教師の兄の想い出ということですが、そのような伝記的な事柄を知らなくても聴けば悲しみに満ちた音楽だということはすぐに分かります。締めくくりは映画"Mash"のテーマ"Suicide Is Painless"です。Evansは自殺しませんでしたが、自滅的な死に方をしました。麻薬に溺れ、食事や栄養にも気を遣わず、痩せ細って衰弱して死にました。

Bud Powellは生活の安定と健康の快復を求めてパリに移住しましたが、死ぬ前にニューヨークに戻りました。死にに帰ってきたようなものです。ちょっと驚きますがPowellの死因は肺結核とそれからなんと「栄養失調」です。Powellはニューヨークで"The Return Of Bud Powell"を吹き込みますが、結局これが最後の録音になりました。それ以降の録音もあるそうですが、一般に公開されて売られていません。"The Return Of Bud Powell"は、あのPowellが最後にこういう音楽に到達したということが残念に感じられます。私個人は好きですが、万人に勧められるようなものではありません。

「ジャズ・ピアノの神様」といわれたArt Tatumは1956年に46歳で死にますが、その死因は尿毒症です。Tatumは1956年に沢山の録音をしています。死の予感などない演奏だといわれます。それはそうなのでしょうが、Jo Jones (drums)、Red Callender (bass)と共演した"The Art Tatum Trio"やBen Webster (tenor saxophone)を共演した"Art Tatum - Ben Webster Quartet"はそれまでのTatumとはどこか違う印象があります。Tatumには圧倒的な超絶技巧という一般的なイメージがあります。若い頃の"Tiger Rag"や、"V-Discs"に入っている"The Song Of Bagabonds"──日本では映画「蒲田行進曲」のテーマとして知られています──は物凄い演奏です。腕が何本あるのか分からないというくらいの演奏です。けれども1956年のTatumは静謐で落ち着いた印象です。おとなしいくらいです。だから、最初に入手が容易な"The Art Tatum Trio"を聴いた人はTatumのことを誤解するのではないでしょうか。Ben Websterとの共演では寛ぎを感じさせますが、しかしそのようなことはそれまでの彼であればあり得なかったことです。

アルトゥール・ルービンシュタインのピアノでショパンの『24の前奏曲 作品28』、『ピアノ・ソナタ 第2番 変ロ短調 作品35「葬送」』、『舟歌 嬰ヘ長調 作品60』、『子守歌 変ニ長調 作品57』──1946年の演奏です。「葬送」は後年、1960年代に再録音していますが、そちらのほうがいいです。これは非常に荒っぽい演奏です。

ショパン:24の前奏曲&ソナタ第2番

ショパン:24の前奏曲&ソナタ第2番

有名なピアニストの演奏でしかも名演といわれるものであっても、聴いてみると驚くほど荒い(粗い)演奏であることがあります。例えば、リヒテルによるリストのロ短調のピアノ・ソナタや、ベートーヴェンの「葬送行進曲つき」や「熱情」といったピアノ・ソナタの演奏です。テンポは猛烈に(滅茶苦茶に)速いしミスタッチも沢山あります。けれどもそのような演奏がいいのだという批評家もいます。よく分かりませんが、技巧を超えて迫ってくるものがあるということなのでしょう。リストであれば、ポリーニアルゲリッチブレンデルの演奏や、或いは1930年代のホロヴィッツの最初の録音(『ホロヴィッツ・イン・メモリアル』)がいいと思います。

リヒテルにはスタジオ録音でそれこそ完璧な演奏が幾らでもありますが──バッハの『平均律クラヴィーア曲集』やチャイコフスキーラフマニノフのピアノ協奏曲など──、リヒテルのライヴを褒めるような批評家からすればそのような演奏は空疎だというようなことなのでしょう。ちなみにチャイコフスキーホロヴィッツと比べ、ラフマニノフの2番をラフマニノフ自身の自作自演盤と比べるならば、リヒテルの演奏はテンポを落としてじっくりピアノを響かせるというような落ち着いた演奏です。

そういえばリヒテルベートーヴェンには「悲愴」もカップリングされていました。超名演だそうですが、確かに「悲愴」ソナタはいいと思います。CBSホロヴィッツの演奏と並ぶ名演です。ロシア人のベートーヴェン解釈というのは、バックハウスのようなドイツ人の解釈とは違うのでしょうが、よく分かりません。そのバックハウスの演奏は、非常に落ち着いていて、淡白なもので、リヒテルホロヴィッツのような鬼気迫るといった印象がありません。バックハウスも若い頃は「鍵盤の獅子王」などといわれ、相当乱暴な演奏をしたそうですが、録音されて残っているのは年を取ってからの演奏ばかりですから、そのような荒っぽさは感じさせません。

"Rachmaninoff Plays Rachmaninoff" - Solo Works and Transcriptions / Solo-Werke und Transcriptionen / Oeuvre pour piano seul et Transcriptions / Opere per pianoforte solo e Transcrizioni. Sergei Rachmaninoff, Pianist. Total Time - 69:57. Recorded: 1925-1942.

ラフマニノフによる自作自演は非常に素晴らしいものです。前も言及しましたが、「楽興の時 変ホ短調 作品16の2」の演奏はホロヴィッツよりもいいし、「V.R.のポルカ」もそうだと思います。ちなみに"V.R"というのはラフマニノフの父親のイニシャルです。「前奏曲 嬰ハ短調 作品3の2」はラフマニノフの作曲のなかでも特に有名で、ナット・キング・コールのピアノ・トリオがジャズにアレンジしています。

話は変わりますが、本当にそのような対応関係があるのかどうか分かりませんが、仮に次のように考えてみるとします──
デカルト / スピノザ
フッサール / ハイデガー
ソシュール / イェルムスレウ

現代の、というか、正確には20世紀のスピノザ主義者は簡単にデカルト(的なもの)を否定してしまいます。彼らは、コギト(デカルト)、超越論的主観性(フッサール)、語る主体(ソシュール)から出発する必要はないと考えます。けれども本当にそうなのでしょうか。

私にはデカルトを否定するスピノザがどうして、絶対無限の実体である神の認識、その十全な観念に到達できるのか分かりません。人間は『エティカ』の体系では「有限様態」という位置付けになります。要するに有限者です。そのような有限な存在である人間がどうして、無限者(=神)を認識できるのか不明です。「神から始める」ことはできないと思います。スピノザは『知性改善論』のようなものを書こうとしましたが(それはスピノザにとっての『方法叙説』です)、挫折してしまいました。

同様に、現存在(Dasein)の現(Da)という開けを存在(Sein)への通路とするというようないまだ現象学的な方法論を採用していた『存在と時間』の完成を放棄した後期ハイデガーが、いったいなぜ、「存在の歴史」「技術(テクネー)の運命」などを語れるのか分かりません。彼はどうしてそのようなことを知っているのでしょうか。彼の知識、認識はどこから来ており、どのように根拠づけられるのでしょうか。

このような認識論的な問題がスピノザや後期ハイデガーにとってどうでもいいことだったとしても、読者にとってはそうではないと思います。言語学については専門的に学んでいないので簡単な指摘に留めますが、「語る主体」から出発するのではなく絶対的な形式主義を徹底するなどということが本当にできるのでしょうか。私はできないと思います。「語る主体」から切り離されたかたちで言語、言葉を考えることは不可能だと思います。