近況アップデート

このところ20年以上前の記憶を摸索することが多いです。漫画にしても、『パタリロ!』や『風と木の詩』など子供の頃暗記するほど繰り返し読み込んだものを再読したいですが、残念ながら倉庫の奥深くで眠っていて取り出すことができず、図書館に漫画はないしTSUTAYAにもないので、読むことができません。子供の頃、といっても中学生とか高校生の頃の私には『パタリロ!』の全巻を逐一丁寧に解説するといった本であれば書く自信がありました。それほどに『パタリロ!』が好きだったのです。『パタリロ!』の舞台背景には当時の東西冷戦があります。マリネラ王国という架空の国が舞台ですが、イギリスのMI6のバンコラン少佐がパタリロの警護をしています。基本的にソヴィエト連邦共産主義を否定し、西側諸国の資本主義(自由主義)を礼賛するイデオロギーがあります。それがただ単にイデオロギーでしかないというのはそれこそ子供でも分かります。

萩尾望都の『ポーの一族』のラストシーンは過去へ還ろうということです。主人公の兄妹は吸血鬼、ヴァンパイアなのですから不死のはずですが、妹が焼き殺されてしまい(焼殺されてしまうと吸血鬼でも死んでしまうようです)それで遺された兄がそのように考えるというところでこの物語は終わります。非常に美しい物語です。萩尾望都にせよ、これを超える作品を知りません。『メッシュ』は良かったと思いますが。『トーマの心臓』はどうでしょうか。それは、ギムナジウムで少年が自殺をしてしまうというところから始まる物語でした。

トーマの心臓』はそれを読んだ当時の私がまだ子供であったということでしょうが、どうしてギムナジウムの生徒が自殺をしてしまうのかよく理解できず、難解だと感じた記憶があります。それに比べると竹宮惠子の『風と木の詩』は分かりやすかったのです。もちろん『風と木の詩』にしてもいろいろと複雑な要素があります。セルジュとジルベールの恋愛関係が中心ですが、ジルベールと義父のオーギュのややこしい関係なども考慮しなければなりません。オーギュはジルベールを虐待していましたが、それでもジルベールはオーギュを愛しており、オーギュが自分を迎えに来るのを待っていました。

風と木の詩』の最後のほうで、セルジュとジルベールは学園を出て街で二人で生活しようとしますが、どうしてもうまくいきません。セルジュはピアノが弾けるので、酒場で演奏する仕事を得ますが、ショパンなどクラシックを演奏すると店主から怒られてしまい、もっと通俗的なものを弾けと言われてしまいます。そして贅沢に慣れていたジルベールは貧乏に我慢できず、セルジュに当り散らします。二人は激しく喧嘩をして、結果、セルジュがジルベールを無理矢理に犯してしまうというようなことにもなります。そのラストシーンは、ジルベールが衝動的に道路に飛び出してしまい、馬車に轢かれて死んでしまうという場面です。その馬車にはオーギュが乗っていたのかという読者からの質問に答えて竹宮惠子は、いやそんなことはない、あれは本当にただの偶然の事故であってそれ以上の意味はないのだ、といっています。

寺山修司が『風と木の詩』を礼賛する文章を書いており、『風と木の詩』に入っています。寺山修司の意見では、ジルベールは悪だからいいのだということですが、この漫画の全体が非常に空想的なものだということは強く感じますけれども、ジルベールがとりたてて悪であるとは私は思いません。ジルベールが特に愛情などなくても学園の生徒達と誰とでも寝てしまうから悪なのでしょうか。そういう考え方もあるのでしょうが、私はそう思いません。