近況アップデート

いろいろ考えたいことや書きたいことがありますが、もちろん一度に全部書くことはできません。だから長い時間や日にちを掛けて書くしかないのですが、簡単にいえば、哲学のテキストは慎重に読んだほうがいいと思っています。専門でないのでよく知りませんが、文学も同じだと思います(K=King=天皇とかいうのは軽率だと思います)。考えていることを全部書くことはできませんが、列挙すれば、まず、フーコーの分析は本当に一見そう見えるほど緻密なのかということを疑っています。それから、戦後フランスにおけるスピノザルネッサンスを疑っています(ネグリも入るし、ネグリはイタリア人だからフランスだけの現象ではありませんが)。ドゥルーズについても疑問があります。

念のためにいえばフーコードゥルーズが嫌いだということではありません。むしろ彼らのことは子供の頃から好きです。ただ、長く読んでいると、少し分かってきますが、疑問も出てくるということです。

ドゥルーズの主著に『ニーチェと哲学』という本があります。最近新しい翻訳が出ましたが、私には購入することができません。なので国文社の古い翻訳(若くして亡くなった足立さんという方の訳です)と原書で持って(読んで)います。

ニーチェと哲学』の結論で、ドゥルーズは、現代哲学はごたまぜの混乱状態にある、と批判しています。例えばラッセルをフッサールとくっつけたり、ウィトゲンシュタインハイデガーとくっつけたり、そういう変な解釈が横行しているのはおかしい、とか言います。私もそう思いますが、そのように言うドゥルーズ自身が『アンチ・オイディプス』のような本を書いたのはどういうことなのかさっぱり分かりません。

ちなみにドゥルーズ英米文学は好きだったのでしょうが、英米哲学には偏見がありました。ドゥルーズのアイドルはチャールズ・サンダース・パースとウィリアム・ノース・ホワイトヘッドで、それ以降の英米哲学を全く評価しません。厳密にいえばイギリス人、アメリカ人ではありませんが、ウィットゲンシュタインを哲学におけるテロリストと看做していました。ウィットゲンシュタイン以降のアングロサクソン哲学の展開をフォローしていた形跡はまったくありません。ドゥルーズクワインやパトナムやデイヴィッドソンなどを読んでいないと思います。興味もなかったのでしょう。

スピノザルネッサンスへの疑問といえば、ドゥルーズのような人がスピノザの実体、神即自然といった思想に惹かれたのはよく分かります。けれどもどうしてアルチュセールネグリのようなマルクス主義者がスピノザに惹かれスピノザにこだわったのか彼らの本を読んでもまったく分かりません。どう読んでも、スピノザ無神論とか唯物論と解釈することはできないと思います。仮にタイムマシンで17世紀のオランダに遡行して、スピノザに、あなたの思想は無神論であり唯物論だ、とか言ったら、スピノザは驚愕して否定すると思います。

他方、アルチュセールネグリが『君主論』のニッコロ・マキャヴェッリ(インターネットで検索しますと、マキアヴェリという表記もありますが、いずれが元の発音に近いのか分かりません)に大いに惹かれたのはよく分かるし、必然だと思います。社会思想史に詳しくありませんが、マキャヴェッリほど政治や権力をリアルに洞察した思想家はいないと思います。

イタリア語が分かりませんので、原語を正確に引用できませんが、マキャヴェッリにとって、通常「徳」などと訳される言葉は「力量」といった意味でした。彼には道徳や倫理ではなく、徹底的にリアルな政治だけが問題だったのです。どうして「徳」が「力量」なのかというのは、現代の我々にはよく分かりませんが、そういう微妙な意味合いのずれというのは古典を読むとよくあります。例えば、デカルトやロックなどが善という表現を使うとき、とりたてて道徳的なことではなく、快という意味である場合が多くあります。カントの『実践理性批判』や『道徳形而上学の基礎づけ』以降、道徳的、倫理的な善と快はまったく別のものと考えられるようになりましたから、そのような思考の枠組みに慣れていると、それ以前のデカルト、ロックの言っていることがよく分からなくなってしまうわけです。