近況アップデート

中村さん、田口さん、「いいね!」をありがとうございます。

私が悪い意味で「独創的」な読みと非難したのは、例えば、『こころ』の「K」がKing(天皇)だとか幸徳秋水だとかいう一部の批評家達の詮索です。それは妄想なのではないでしょうか。カフカの小説の「K」が誰かなどと詮索するのと同程度に無意味だと思います。

ニーチェについて言おうと思ったことがあります。それは自分が読む限りニーチェはヨーロッパ人の運命しか考えていない、興味がないということです。彼の考え、「偉大なる政治」というのは、はっきりいえば、キリスト教の毒に感染して約2000年掛かってすっかり頽廃してしまったヨーロッパ人を1000年がかりで訓育し直そうというような話です。別にそういうことをニーチェが考えてもいいと思いますが、ヨーロッパ人でもなくキリスト教徒でもないような多くのアジア人、東洋の人間にそのような政治思想が有意味なのか自問してもいいと思います。念のためにいえばオリエンタリズムとか東洋差別などを批判したいわけではありません。ニーチェだけではなくハイデガーフーコーもそうなのですが、東洋を蔑視しているというよりも、自己限定したのだと思います。

フーコーは自分の分析は(知の考古学であれ権力論であれ)西欧の合理性の形態に限定されているということを強調します。例えば彼が来日して日本の反監獄運動と交流し、刑務所を視察したことがあります。彼の結論は自分の議論(『監獄の誕生』など)を日本の現実にそのまま適用するというようなことはできないしやるべきではないというようなものでしたが、妥当だと思います。

フーコーが東洋なりアジアに言及したのは私が知る限りでは一度だけです。『知への意志』で西欧の「性の科学」(=真理への意志)と東洋の「性愛の術」を対比しました。けれどもそれはごく大雑把な話です。私は自分が東洋人だから東洋やアジアのことが分かっているとは考えません。東洋人、アジア人であっても勉強しないと分からないと思います。ただ、事実東洋には道教の房中術やインドのカーマスートラのようなものがあったという程度のことなら知っています。けれどもそれはただそれだけのことです。例えば、本当にそうなのかどうかは知りませんが、ニーチェには仏教が「衛生学」に見えました。けれども性愛の術とか衛生学というのは、ヨーロッパ人であるフーコーなりニーチェから見れば、東洋とかアジアがそのように映ったという話です。本当に東洋がそうなのかはよく吟味してみなければ実際には分かりません。

ニーチェハイデガーフーコーがヨーロッパ人のことしか考えていなかったとしても仕方ないと思いますが(ただ留保しておけばフーコーにとってはアメリカ滞在体験が新鮮であり、アメリカが他者でした。彼は特にアメリカを論じなかったと思いますが)、江藤淳が世界の常識では第二次世界大戦ではなく第一次世界大戦のほうが根本的な歴史の転機だとか言うとき、彼の言う世界の常識なるものがヨーロッパの知識人の常識でしかないというのは、どうなのでしょうか。江藤淳自身は当然アジア人であり、ヨーロッパのインテリではありません。そこには自己誤解があると思います。前も言いましたが、近代日本の歴史経験を踏まえるならば日本(日本人)にとっては別に「進歩的知識人」などに限らず第二次世界大戦、太平洋戦争のほうが根本的に重要であるというのは当然なのではないでしょうか。