近況アップデート

入浴してすっきりしました。明日、人に会います。午前中、大学生君が、芸音をやめるという話をうちの母親(先生)にするためにやってきます。午後、倉数さんと船橋で会います。だから、風呂に入ることができてよかったと思います。

個人的な感想ですが、漱石や彼が造型した人物、「先生」がまだしも幸福であったと感じるのは、言葉には意味があるとか、他者に記憶してもらえるというようなことを信じることができたということです。それは救いであったと思います。私は、このことを「現代の我々は」とかいって一般化するつもりはありませんが、少なくとも自分にとっては「先生」のような前提は不可能だと感じています。つまり、言葉には意味がないし、それを他者に伝達することもできず、記憶してももらえない、さらにいえば「記録」すら残ることはない、演奏されれば音が空中で霧散して消えてしまうように綺麗に消滅してしまい、何も残らない、そう思っています。

私は別に難しいことを申し上げているわけではありません。私のはてなダイアリーを読んで、わけがわからないとか怖いとかいって離れていく無数の人々がいます。彼らの感覚がおかしいとは思いません。普通だと思います。つまり私は早朝から深夜まで膨大にものを書きますが、意味がないということです。誰か他者に理解されたり承認されることはあり得ないし、そのようなことを当てにして書いてはいません。一般にインターネットで読む人が分からないだけではありません。家族(両親)、恋人(彼氏)、主治医(精神科医)、このような人々にもまるで分かりません。書き言葉であれ話し言葉であれ、言葉が人に到達する前に自ら挫折して指の間から砂粒が零れるように散逸してしまいます。だから私には誰かに何かを伝えることができません。

NAM会員は700人以上いました。でも彼らにも分からないのです。一般に、何だかわけがわからないうちに大騒ぎになりいつのまにか解散してしまった、そういうふうにしか認識されていないし、そのようにしか考えない人々は当然自分がコミットしたという感覚も全くないので、すぐに忘れてしまいます。別に忘れることが悪いとは思いません。むしろ健全です。

岡崎さんの友達で建築家の中谷礼仁さんという人がいますが、中谷さんは私が問題提起をしたときに、私に対して、自分はNAM会員であったけれどもNAMには「消費者」という意識しかなかった、と言い放ちました。けれども私は中谷さんのように考えないし彼の考えを否定します。NAM事務局に1万円払ってMLを読んだから「消費者」、お客様なのでしょうか。そうではないと思います。NAMの原理と「契約」して入ってきたのであれば、その人には政治的、倫理的な責任が生じるのは当然のことだと思います。そういうことを少しも感じないし考えない中谷さんのほうがおかしいのです。

そうはいっても実際には、自分は消費者であったというような人々ばかりであったというのもどうしようもない事実でしょう。だから、そういう人々は別に彼ら自身の責任を何も感じません。NAMが終わってしまえばさっさと忘れます。それはただそれだけのことです。

そのようなことで私がいいたいのは、自分がNAMに関わる事実の訂正を幾らやったとしても、そんなことを読みたい人など誰もいないのだという自明な事実です。NAM会員すら関心がないのに、ましてそれ以外の人が関心を持つでしょうか。そういうことはあり得ません。

NAMの経験から、NAMそのものを離れて一般的な教訓を引き出そうとすれば、「主観的な善意ほどあてにならないものはない」というような非常に平凡でくだらない考え以外出てきません。そのようなことに特に意味があるとも思いません。それは無数にある諺のようなものにたいして意味がないというのと同じです。

鎌田さんは三木さんらを誹謗したファイルに「NAM会員へ」という題名を付けています。当然NAMはとっくに解散しているのでNAM会員などもう存在しません。鎌田さんが言いたいのは、自分の責任をなかったことにして逃げてしまい、忘れてしまっている当時のNAMの人々への怒りであり、そういう人に自分がやったことに向き合ってほしいという「怒りの批評」なのです。けれどもそれは無効です。NAMの人々は別に検索してまで『web重力』などを読みません。もし読んだとしても、瑣末なことで鎌田さんが三木さんや石黒さんを残酷にやっつけているという事実を目撃するだけで、そういうことがまさか自分に関係があるかもしれないなどというふうには考えません。だからそういうことは全く無駄だし無意味なのです。

余り関係がないことですが、ドゥルーズが「この世界への信」を回復しなければならないとか唐突に言い出したことを想起します(『シネマ2』)。彼にとって、理由はよく分かりませんが(資本主義のせいなのか、テレビなどのメディアがいけないのか、結局不明です)、世界経験は分裂症的になってしまい、我々自身と世界との紐帯とか、世界への信などが決定的に失われてしまったのです。そのことを私なりに言い直しますと、「意味」そのものが成り立たないし、ましてや他人に「記憶」してもらいたいというような願いも断念しなければならないということです。

唐突かもしれませんが、ゴダールの『勝手にしやがれ』のシナリオをフランス語で精読したことがあります。主人公の男の恋人がアメリカだかイギリスからやってきている女性です。当然、彼女のフランス語は下手です。最後に男が射殺されたのだったか、死んでいくときに、この世は最低だとかいう言葉を漏らします。ところが恋人の女性はそのフランス語を正確に聴き分けることができません。"Qu'est-ce que c'est?"(何なの?)とそばにいた刑事に訊ねます。そうしますと刑事は、「あんたは最低だってさ」と事実と違うことを教えます。それがこの映画のラストです。主人公の男は、死んでいくときに自分の恋人にさえも、自分の言いたいことを伝えることができないし、決定的な誤解によってこの作品は幕を閉じるのだということです。けれどもそういうことは、ゴダールの映画などに限らず一般的な経験なのではないでしょうか。

さて、とりあえず今日はこのくらいにしておきましょう。皆様お休みなさい。良い夢を。