近況アップデート

『こころ』について少し補足しておこうと思います。「先生」が死ぬのは明治の精神に殉死するというのが理由ですが、それだけではないと思います。語り手の「私」という青年が妙に「先生」に接近し関わってきます。「先生」は単に奥さんと孤独に生きているだけですが、「私」という青年は執拗です。そして、「先生」の真実を(それがどういうものかも知りもしないのに)知りたがります。「先生」はこの青年は真面目である、と評価します。そして、遺書である長文の手紙で自分の真実を告げることにします。「先生」が「私」に言うのは、貴方は真面目だから、ということと、記憶してください、ということです。残酷な比喩だと思いますが、自分の心臓を破ってその血を降り掛けるのだ、そういうやり方で自分の真実を告げるのだ、とか言っています。

私の推測ですが、「先生」が死ぬことができたのは、手紙というかたちであっても、この青年に彼の秘密、真実を告げることができたからではないでしょうか。或る意味、彼の奥さん、「お嬢さん」は一番の当事者です。「先生」と「K」は彼女を巡って争ったわけですから。けれども、長年連れ添った夫婦でも、たとえ愛情があったとしても、むしろそれゆえに、「先生」は奥さん=「お嬢さん」には「K」の死の真実を打ち明けることがどうしてもできません。それは彼女の精神的な負担になるから気遣っているのです。だから、苦しんでいても、そのことを配偶者にすら話せない「先生」はとても寂しい人です。けれども、不意に近付いてきた青年に自分なりの真実を語り、記憶して欲しいと頼むことによって、ようやく死んでいくことができたのではないでしょうか。

「先生」が自分でそう言っていますが、「先生」の真実というのは、それほどたいしたものでも深遠なものでもありません。親戚に財産を詐取されたというのはただ単に金銭の問題です。「K」と三角関係で争ったというのは女性問題でしかありません。それはごく平凡なものです。「先生」もそれを自覚しています。けれどもそうであるとしても、その平凡な事実こそが自分の生の貴重な真実だと思っているということです。明治の思想の状況にそれほど詳しくありませんが、当時にしても、現在のように、一見したところ「深遠」そうな思想など幾らでもあったのではないでしょうか。ただ、「先生」はそのようなことに興味がありませんでした。彼にとっては、江藤淳の表現を借りれば、切れば血の出るような事実(ファクト)だけが大事であり、彼なりの真実だったのです。それが金銭と性というような実にくだらないものであったとしても、でもそれが「先生」なりの真実です。「先生」はカネや恋愛が人を動かして悪や残酷なことをさせる、それは「先生」自身さえも例外ではないのだと知ってしまっています。「先生」の真実とはそれ以上でもそれ以下でもありません。