近況アップデート

今日は『聖なる怪物たち』、楽しみです。中谷美紀を観ることができる。

フッサールを勉強したいのですが、ドイツ語をやらないと駄目でしょうか。邦訳があるものはほぼ読んだのですが、ただ、初期の代表作『論理学研究』が難しくて躓いてしまっています。フッサールの『論理学研究』とヘーゲルの『大論理学』を読破する(そして理解する)のが夢ですが、特にヘーゲルは、邦訳で読んで理解しようというのは無理かもしれません。遠回りでもドイツ語の勉強から始めるべきかも。

別にヘーゲルが好きではありませんが、ドゥルーズが否定するほど簡単なものではないと思います。ドゥルーズフォイエルバッハヘーゲル批判を持ち出してヘーゲルをやっつけてしまいますが、ヘーゲルがその程度の思想家だとは私は思いません。

もしヘーゲルに弱点があるとすれば、やはり実証性が十分ではないということでしょう。例えば彼は、アダム・スミスから多くを学び摂取して『法権利の哲学』に活かしていますが、これでいいのかな、と思ったりする場合がよくあります。

ヘーゲルは最終的に神の論理になってしまう、という長谷川宏の意見はその通りだと思います。現代の我々にはよく分からないところです。ただ、その神なるものの内実が不明です。キリスト教の神なのか、アリストテレスからスピノザまで続く──パスカルキェルケゴールのようなキリスト教信仰のある人々が激しく拒絶した──「哲学者の神」なのか。

ヘーゲルが単に素朴なキリスト者でないのは自明ですが、それでも彼はキリスト教の優位を語っているようにみえます。若い頃は、神の死という痛切な経験、などと語っていたようですが、歳を取り成熟して変わってしまったのではないでしょうか。

フォイエルバッハは感性の直接性に訴えることでヘーゲルを論破できると思っているようですが(ドゥルーズもそう考えているようですが)、だったらフォイエルバッハの哲学は必要ではなく、イギリス経験論でいいのではないか、とか思ってしまいます。

ちなみにマルクスの場合はヘーゲルとの関係は遥かに複雑で入り組んでいると思います。一般にヘーゲル弁証法を顛倒させたとか「足で立たせた」とかいわれますが、そういう安易なものだとは思いません。

マルクスフォイエルバッハ批判(「フォイエルバッハ・テーゼ」)、エンゲルスフォイエルバッハ批判(『フォイエルバッハ論』)、彼らが共同で書いたフォイエルバッハ批判(『ドイツ・イデオロギー』)を慎重に吟味し論点の違いを整理する必要があるでしょう。

マルクスの場合、ヘーゲルとの関係がどうかという以前に、そもそも「哲学」との関係がよく分かりません。確かに彼は『経済学・哲学草稿』を書きましたが、それで判断していいのでしょうか。といって、『資本論』から特定の哲学思想を導き出してしまうことにも慎重であるべきだと思います。別に「ディアマート」だけが問題だとか、悪いというわけではないでしょう。

Ustreamで話しましたが、NAMの事務所を引き払うとき、みんなで集まってそこにあった机とかパソコンとかを整理、処分したのですが、柳原さんの奥さん(障害児教育、福祉をやっておられる方)から、「攝津さん、なんでこんなことになってしまったんでしょうね?」とか結構真剣に訊かれました。けれどもそういうことを私に訊かれても分からないというか、むしろそういうことを誰かに訊きたいのはこっちのほうだというか、当然、答えはありませんでした。