近況アップデート

20世紀の思想はソシュールが考えた言語(ラング)というものを、ハイデガーの「存在」、フロイトの「無意識」のようなものとみなそうとしたわけですが、結局それは強引な解釈だったのではないでしょうか。けれども今も昔もそういう強引な解釈が(ソシュールに限らず)多いでしょう。例えば、戦前の世界では、フランスでも日本でも、現代数学ハイデガー存在論を結び付けてしまうような解釈がありました。フランスではアルベール・ロトマンという人、日本では田邊元などです。中沢新一に限らず、田邊元の哲学がドゥルーズそっくりだ、とか騒ぐ人が多いわけですが、ドゥルーズは戦前的な雰囲気を吸っている人、というか、フランスの戦前の哲学的思考をそのまま戦後に持ち込んだような人だから、その彼の哲学が京都学派に似ているのは当たり前だと思います。そういうことでいえば、例えばドゥルーズはヴォリンガーを熱心に参照します。西田幾多郎もそうなのです。では、ドゥルーズ西田幾多郎が似ているのかというと、そういう話でもないと思います。特定の時代の哲学的、思想的な雰囲気を吸っている、共有している、というだけのことだと思います。勿論現代数学ハイデガーと結び付けてしまうロトマンをそのまま『差異と反復』で復活させるドゥルーズは時代錯誤というか、はっきりいえば間違っているというか、ソーカルが批判するような数学の濫用だと思いますよ。ドゥルーズ自身は別にそれで満足していたのでしょうが、読者が彼の自己認識を受け容れる必要はないでしょう。

ドゥルーズの思想から「数学の濫用」を取り除いてしまえば、本当に全く何も残らないのではないでしょうか。「多様体」、「特異点」、「微分」…。