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理由は分かりませんが、なんとなく非常に疲れてしまいました。どうしてなのでしょうか。前も書きましたが、ラカンから『エクリ』を贈呈されたハイデガーは、こんなものは所詮狭いパリの知的遊戯、流行現象に過ぎない、という意味のことを言いました(『ツァリコーン・ゼミナール』木村敏訳、みすず書房)。自分のような東洋の人間が、そういうパリの知的な遊びを真面目に受け取る必要があるのだろうか、とかいうことを考えてしまいました。しかし、別にドゥルーズを否定してもいいと思いますが、私はドゥルーズを読むくらいのことしかしてこなかったのだから、なんとなくドゥルーズを全部否定してしまうと、自分の人生というか、自分がこれまでやってきたことを否定してしまうような気がします。そうはいっても、ドゥルーズの主張に同意できないことは多々あるのは事実なので、それはしょうがないようにも思います。

もう一つ感じているのは、私は自分の元生徒が、大学生だけれどもまだ十代だから子供だ、といいましたが、そのようにいう私自身が、彼に比べてもまだ子供なのではないか、ということです。私には自分の利害を計算して行動するということがどうしてもできません。そういうことは非常にいやなのです。しかし、通常、そのようにしなければ生きていくことはできません。その意味で、自分は成熟できなかった、大人になれなかった、と思います。

Ustreamであれこれ話しましたが、ソシュールラカンフーコードゥルーズ、といったことを喋るよりも、太宰治の『右大臣実朝』とか、源実朝が暗殺された経緯とか、『斜陽』を志賀直哉が貶した話とか、漱石の『こころ』とか、そういうこと(たいして専門的でもない)を話しているほうが自分として楽しいような気もします。では、日本文学を専攻していればよかったのでしょうか。そういうことでもないように思います。もし日本文学を専攻して勉強していたならば、今頃日本文学が大嫌いになっていたのではないでしょうか。そういうものだと思います。

フランス現代思想がパリの知的遊戯だとしても、日本の近代文学も単なる遊戯以上のものなのでしょうか。というようなことを、つい考えてしまいます。

さて、ではどうして、自分の利害を計算して功利主義的に行動できないのでしょうか。私の考えでは、それは「道徳的マゾヒズム」(フロイト)ということです。常に損な選択というか、自分に不利益になり、結果的に自分を滅ぼしてしまうようなほうを必ず選択してしまう、そういう嗜好、嗜癖であるということです。それは性格であり体質であるので、致し方がないように思います。

ふと思い出したのですが、吉本隆明の『源実朝』(ちくま文庫)は面白かったと思いました。私の記憶では、当時の武家社会のありようというのは、現代の合理的な我々の理解を絶したものであった、その複雑な関係性の絡み合いのなかで、源実朝は自分が殺されるであろうということも薄々分かっていた、けれどもどうしようもないので諦めていた、というようなことだったと思います。吉本はこういう本とか、『悲劇の解読』などがいいと思います。『言語にとって美とはなにか』にはソシュールの決定的な誤解があります。もし吉本がソシュールを理解していたら、「自己表出」などと言わなかったでしょう。また、吉本はフーコーに衝撃を受けたといいますが、しかし、『言葉と物』しか読んでいないし理解していません。もし『狂気の歴史』をまともに読み、理解していたなら、それが自分の『心的現象論』のような発想に疑問を呈するものだと気付いていたはずです。しかし、吉本はそのようなことには全く思い至らなかったので、何十年も『試行』に『心的現象論』を連載し続けるようなことができたのです。それは不幸といってもいいでしょうが、他方、しょうがなかったとも思います。60年代には、ソシュールを正確に理解できる環境がなかったはずです。『一般言語学講義』を小林英夫という言語学者が翻訳していましたが、ソシュールの意図を正しく伝える翻訳ではなかったそうです。だから、吉本がソシュールの言うことが理解できなかったとしても、仕方がなかったのではないでしょうか。