ジャズ美学成立の困難

今考えているのは、ジャズの美学の成立の困難、ということです。
簡単にいえばアーカイヴの成立が困難だから、ジャズ美学も困難、ということです。
エリック・ドルフィーの『ラスト・デイト』のおしまいに、ドルフィーの肉声(英語)で、音楽というものは演奏されてしまえば空中で消えてしまうんだ、というような意味のことが語られていたでしょう。そういうことです。
もちろんCDがあります。しかし、当然ながらすべてが記録されるわけではありません。
チャーリー・パーカーにせよ、我々が彼のライヴの一端を窺い知ることができるのは、ほとんど偏執狂的なファン、マニアがいて、パーカーの行くところ全てに録音マイクを持ってついていったからです。その成果が『パーフェクト・コンプリート・コレクション』です。そのようなものがなければ、我々は、サヴォイ、ダイアル、ヴァーヴの公式録音でしかパーカーを知り得なかったわけです。仮にそうであっても、パーカーは偉大であるということに変わりはないでしょうが、パーカーのイメージは相当違ったものになっていたでしょう。

少し角度を変えていいますと、Facebookで最初に後藤さんとフーコーの一件を書いたとき、大学の先輩で今は文学や思想ではなく現代ダンスの研究をされている方が反応してくれました。彼の話では、ダンスではまさにアーカイヴが成り立たないので、研究が難しいということでした。
私は無知で知らなかったのですが、ダンスにも「譜」があるそうです。しかし、それは非常に特殊なもので、まず一般の人には読めないし、その「譜」だけを手掛かりに論じるのも難しいそうです。ダンスをヴィデオなどに録画する場合もあるでしょうが、それも二次的であるそうです。
そうしますと、ダンスの研究といっても限りなく「批評」のようなものだ、ということになってしまいます。
つまり、或るダンスの公演について彼が何か書いたり分析したりするとします。しかし、その内容が妥当なのかどうか、その公演を観に行かなかった人には永久に分からないということです。
アーカイヴがないということは、再現性、反復可能性、客観性、検証/反証可能性がないということです。そのような場合、美学や芸術学を構築するのは困難であろうと思います。
フーコーの知の考古学ならば、フランスの図書館とか古文書館に所蔵されているような歴史的な古文書資料の総体がアーカイヴでしょう。ヴォリンガーやヴェルフリンにとっても、「モノ」としての、つまりしっかりとした物質性がある対象としての美術作品の総体がアーカイヴでしょう。同じようなことがダンスやジャズにはいえるのか、ということです。
私の先輩の意見では、ジャズならまだ、楽譜なり採譜があるし、CDもあるからまだましではないか、とのことでした。それはそうかもしれません。ただ、パーカーならパーカー、パウエルならパウエルの即興をどう客観化し分析できるだろうか、と考えてみると、容易ではないようにも思います。

ちなみに私個人は、楽譜は読めますが、書く力はないです。採譜はできません(どこかで訓練すれば、できるようになるかもしれませんが)。「耳コピ」なら少しはできます。セロニアス・モンクの「ブルー・モンク」「ナッティ」「ベムシャ・スウィング」を耳コピしました。しかし、それらは全て単純な構造をしています。ちょっと脇道に逸れますが、私が耳コピした「ナッティ」「ベムシャ・スウィング」はCだったのですが、どうもモンク自身はBフラットで演奏しているようです。どうしてそういうことになったのか、ずれが生じたのか分かりません。
もう死んでいますが、私の実父は大阪のバンドマンで、サックス奏者でした(ちなみに、全く有名ではありません。少しも歴史に名前が残っていません。それは実父とともにバンドをやっていた母親も同じですが)。彼がモンクが19歳で作曲した「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」を採譜しており、私はそれをたまに演奏します。モンクの曲は、70曲以上あるそうですが、それを全部調べたわけではないですが、コード進行の複雑さという点ではこの19歳での作曲が一、二を争うのではないでしょうか。研究というようなたいそれたものではありませんが、自分が調べた限りでいえば、「アスク・ミー・ナウ」が複雑だと感じました。

美術館のキュレーターが、モンクの構造主義的分析ができないかと言い、私が困難だと考えた、と今朝書きました。つまり、モンクを繰り返し暗記するほど聴けば、モンクに特徴的な(即ち彼が好むような)フレージングや和音が分かります。モンクは、特に若い頃(プレスティッジの『セロニアス・モンク・トリオ』に顕著です)、通常不協和音として嫌われるような短2度や減5度を執拗に繰り返して使っています。そのようなことなら理解できるし、音源の参照を求めることで他者にも伝達可能でしょう。再現可能性や反復可能性などがあるということです。しかし、それに楽理的な、或いは数学的な(これは無理だと思いますが)解析を加えて、「構造主義的な分析」をすることなど果たして可能なのでしょうか。私自身は懐疑的ですが、後藤さんであれ、ほかのかたの考えもうかがえればと思います。