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自分がそんなことを考えてもしょうがないとも思いますが、知的な誠実さとはなにかということもついつい考えてしまいます。カント学者の中島義道さんが『悪への自由』という新刊を出しましたが、その本に彼がラカン派の人々と一緒に勉強会をしたときのことが書かれています。どうしてそうなったかといいますと、ラカンに"Kant avec Sade"(サドとともにカントを読む)という論文があるからです。それで中島さんがいっていたのは、ラカンはカントがまったく書いていないことまで「読んで」しまうのだから或る意味凄い、みたいなことです。それを読んで、どうなのかなあ、と思いました。サドとともに、或いはサドによってカントを読解するとかいうことは、普通の人、常人の発想ではありません。岡崎さんが、ヴォリンガーやヴェルフリンからフーコーを読解しようというようなもので、そういうアイディアを考え付く人は普通いません。ただ、奇抜で独創的なアイディアであるということと、そのアイディアが妥当かどうかというのは、また別の問題です。暴論であったり、論理の飛躍があっても、「独創的」なことを書いたり語るほうがいいのか。つまらないと思っても、地道に文献を確かめる道を選ぶべきなのか。どちらがいいのだろうか、などと考えてしまいます。