ソシュール

少し考えましたが、ソシュールについて。私はよく知りませんが、miyaさんがいうことはもちろん、ソシュールを語る(彼の概念、たとえば「シニフィアン」「シニフィエ」を使う)多くの人が誤解しているんじゃないかと思います。

構造主義者(レヴィ=ストロースラカン)はソシュール言語学を援用して彼らの経験科学(文化人類学民族学なり、精神分析学)を「科学」にしようとしました。フーコーの『言葉と物』が、文化人類学精神分析学に特権的な地位を認めているのも、単にレヴィ=ストロースラカンいたからということではないでしょうか。脱線しますが、後に否認しますが、『臨床医学の誕生』『言葉と物』は構造主義的とみなされても仕方がないようなものだったと思います。けれどもフーコーは自著を改訂してシニフィアンシニフィエとか構造主義を疑われる表現を全部削除してしまいます。彼はよくそういうことをやるのですが、それによって、彼の思考の歴史、航跡が読者に把握できなくなってしまいます。つまり、後になって否定しようと、フーコーが一時構造主義者であった、或いは少なくとも構造主義的であったのは事実なのです。それはドゥルーズも同じです。しかし、そのことを隠そうとする。

それで言いたいのは、ソシュール自身には、人間科学を革新してやろうとか、新たに基礎づけてやろうというような野心はなかったんじゃないか、構造主義者とはちがって、ということです。

それから、丸山圭三郎がいうような生命主義的なこともソシュールは考えていなかったと思います。

ソシュールは晩年、狂気のようになって、延々と「アナグラム」の研究に没頭していました。そのことの意味を私なりに考えてみると、彼は、人間を離れたそれ自体としての言語というものの謎にとり憑かれたのではないか、と思います。
つまり、人間が意味を作るのではなく、言葉がそれ自体で勝手に意味を生産してしまう、というようなことです。
それは到底まともな考えではないし、だから公式的な科学、学問としての言語学も、晩年のそのようなソシュールアナグラムに没頭するソシュールを包摂できなかったと思います。

Ustreamの時間なので一旦、ここまで。