近況アップデート纏め

東京の果てまで行ってカウンセリングを受けてきました。話題は十年前のこと以外あり得ませんでした。カウンセラーに話したこととは別に、帰り道に考えたことがあります。

京都の大学院生の女性は、Qへの借りを返す方法を彼女なりに考え、死という結論に到達しました。では、彼女を死に追いやった私はどうでしょうか。彼女への負債を返済する唯一の方法は私自身が死ぬことなのではないでしょうか。このようなことは別に今日思いついたわけではなく、彼女が死んでからずっとそう思っていました。ただ単に、死ぬ機会がなかっただけです。私は自分に生き延びる資格があるとは考えません。

柄谷行人さんについては、憎悪とか怨念というよりも、すこし違った感情があります。どういうことかといいますと、もう文学者であることはやめてしまったのかもしれませんが(哲学者、思想家、社会運動家になったというご自覚かもしれませんが)、文学者として出発したはずの、つまり人間のことがよく分かっているはずの彼に、人は案外簡単にあっけなく死んでしまうものだというシンプルな事実が遂に分からなかったということに哀れみを感じるということです。彼は老人だから、彼に残された生もそれほど長いとは思いません。彼が彼に残された時間の範囲で、これまで理解できなかったことを理解できるようになるとは考えません。

それと、「不運」ということに思い至ります。なにか運命とか必然というよりも、「ついついうっかりと」知らなくてもいいことを知ってしまったということの、取り返しがつかない不幸ということです。

岡崎さんが、地域通貨が拡大するだけ拡大して仕舞いに破綻してしまえばみんな混乱し困惑して面白いだろう、というような悪意を持っていたということを私は彼から直接聞いて知っていました。しかし、西部さんとか他の人は誰も知らなかった。

Qの専従(登記人)になった人が、NAM会員700人がQに入るはずだという話だったから自分は会社をやめた、そうならないと生活できない、と書いていたのを見付けてしまったのも、「ついついうっかりと」というような偶然でした。それはNAMとかQの公開されているメーリングリストではなく、NAM事務局の(つまり限られた人しか読んでいない)メーリングリストにこっそりと投稿されていたのです。事務局を京都から東京に引き継いだとき、私は過去の経緯を理解する必要があると考え、ついうっかり、過去ログを全部読んでしまったのです。それで、その人がそのように考えているのだということを知ってしまいました。

いずれのケースでも、そういったことを偶然知った私は(NAMとかQのメンバーも大半が知らなかったし知り得なかった事実だと思います)、悲惨な結果にならないように努力しましたが、結果的には全く無力であった、ということです。そのことに深い諦念を感じます。

つまり、そういったことはべつに知る必要はなかった。うっかり知ってしまった自分が悪いというか、正確にいえば運が悪かった、ということだと思います。

もう一ついえば、主観的な善意ほどあてにならない、或いは無意味、有害なものはない、ということです。それは私自身もそうだし、柄谷さんにしてもそうです。前も言いましたが、彼が悪意でNAMを設立したと思いません。むしろ、これまでは社会運動で不幸になるケースが多かったから、そうならないような組織を作ろうということでNAMを作ったはずです。ところがそのようにいっていた当人が問題を起こしてしまった。これは絶望的なことだと思います。

柄谷さんが誰かを(例えば私を)苦しめようとかひどい目に遭わせようというような悪意があったとは思いません。私が知る限り、彼は「子供のような」人、子供そのものです(念のため言い添えれば、それは彼の理論が妥当なのかどうかということとは全く別問題です)。しかし、時に子供は残酷です。私は彼が他人をわざと(故意に、確信犯的に)苦しめてそれを楽しむ、あざ笑うような人であることをよく知っています。

柄谷さんが実にすがすがしい、ニコニコした顔をしているのを見たことが二度あります。一度目は京都での徹夜での会議の次の朝で、柄谷さんが余りニコニコしているので、どうしたんですか、と訊いたら、彼の返答は「攝津君、Qがなくなったんだよ!」でした。

二度目はNAM解散後彼に唯一会って話をしたときのことで、こういうことです。山城むつみさんが柄谷さんのところに、NAMの原理はどこか間違っている、と言ってきたことがあったそうです。そうしたら柄谷さんは激怒して山城さんを罵倒し、お前のあの労働価値説についてのクズのような論文はなんだ、とか言って絶交してしまったのだというのです。その話をして、柄谷さんは、「鎌田ならともかく、山城には相当こたえたろ」とか言って実に楽しそうに笑っていました。私は黙って聞いていましたが、正直、人間じゃない、と思いました。つまり、山城さんを故意に傷付けて彼は笑っている、他人を苦しめてそのことを楽しんでいるのです。

あれこれ言い出すとキリがないのでやめますが、そのようなことに私が絶望感を感じたとしてもごく自然なことだと思います。

全く関係ないですが、杉原さんがNAMで出会った人らは、自分がこれまで知っていたような左翼活動家とは全く違うタイプの人たちだった、無垢で明るく眼が輝いていた、と述懐していたのを思い出します。私が思うのは、確かにそれはそうだったろうし杉原さんにはそれは新鮮な経験で、感動したのだろうけれど、要するに柄谷さんの読者が集まったので政治的な活動経験はなく、ゆえにそれで傷付いたり汚れてしまったというような経緯もなく、だから無垢で明るく眼が輝いていた、のではないだろうか、ということです。それは良くいえば無垢ですが、逆にいえば政治的に未熟で未経験ということです。運動や活動の経験のない不器用な人が多かったNAMが迷走を続けたというのも、そこに原因のひとつを求めることができるのではないでしょうか。

無垢というのが本当にいいのかどうか、という根本的な疑問もあります。

無垢で純粋、といえば聞こえはいいですが、それは要するに無力ということでしょう。

自分がQプロジェクトに参加して一所懸命規約草案を毎日毎晩書き続けたり(Qプロジェクトのメール数は月に1000通、2000通で、メールの読み書きだけでも苛酷な労働でした)、NAM官僚(事務局)としてNAMへのQ導入に尽力したのは、公式的な動機とはべつに隠された秘密の動機があったということです。岡崎さんのような悪意がある人が問題を起こす余地がないように入念にセキュリティに配慮して規約を書きました(それでも、最終的に不正取引事件が起きてしまった。つまり、努力は無駄だったということです)。Qの登記人の生活が破綻しないようにNAM会員全員がQに加入するという方針の具体化に努力しました。しかし、その登記人の方は結局、後に経済的にも非常に困窮することになってしまった。つまり、主観的な善意とか利他心など無意味で、なんの成果もなかった、ということなのです。

おやすみなさい。