近況アップデート纏め

おはようございます。

友人の発言。「てめえは何もしないのに他人の行為を称賛するふうを装って、手柄顔で他人に向かって喧伝して説教をたれる。黙って自分(たち)でやればいいだけのことを後のりで利用してふきまくり、吹聴することじたいが目的となっているカス。恥知らずとはだいたいこのようなものである。他人の尻馬にのった直接行動の礼賛は、行為による宣伝じたいを阻害する障害物でしかない。」

私のコメント。「noizさんが非難されているようなことを自分がやっているのかとか、かつてやっただろうかということを、記憶を辿って反省してみました。私が覚えている限りではそういうことはなかったように思うけれど、忘れているだけかもしれません。ただ、昔の自分で本当に良くなかったと思うのは、政治のことなどろくに知らないしわからないのに、それこそnoizさんを含めて周りの人たちに適当に話を合わせていたことですね。それは真摯な態度ではなかったと思いますが、他方やむを得なかったとも感じます。政治的意識が敏感かどうか、というのは個人の資質で、向き不向きが確実にあると思う。私が当時の「仲間」と同じように考えることは(能力的に)全くできなかっただろうと思います。そのように思うので今はひとりでいるのですが、半端に政治や運動に関わろうとするよりもそのほうがいいような気がします。」

私はそれこそ子供の頃、高校生の頃からドゥルーズを読むとかいうことが好きなだけで、特に政治的意識はありませんでした。だから、後年、レーニンの『帝国主義』(岩波文庫)を読んだとき、難しいと感じました。このような分析や考え方に不慣れだったからです。だから、政治には向き不向きがあるのではないのか、といいました。

今はなくなってしまった「テロリストは誰?九条の会」とか、フリーター労組にいたときも、周りと適当に話を合わせていただけだったと思います。自分は政治のことが理解できるタイプの人間ではない。

だいたいついうっかりNAMにはいってしまうような人に政治的センスなどあるはずがないのです。

私は自分の過去を振り返ってそう思いますが。つまり、ほんの少し運動めいたものに手を出してもみたが、まったく無意味だったと思います。あらゆる意味で。

例えば3.11いらい原発事故が大変な社会問題になっていますが、自分にはよく分からないんですね。

鈍感といえば鈍感だとおもいますが。

私にはもっとほかに大切なことがあります。自分が死ぬのか、どうか、とか。長期的に放射能を被曝して死ぬとかいう話に余り興味がないのは、そんな先のことよりも、いまどうするか、というほうが私個人には大事であるということです。

そういうふうに考えるというのは、すこしも政治的ではないということでしょうが、でもそれでいい、と思っています。

生存が苦痛だという人が放射能を恐れるならば、それはもう笑い話ではないでしょうか。

慢性的自殺ということを言い出した人がいたそうです。例えばこのまま飲酒を続けると死ぬだろうと思いながら酒をやめられないとか、或いは喫煙も同様です。それでいえば、被曝するかもしれないのに避難する気がないのも同じかもしれません。ただ、私には死はもうすこし差し迫った問題のように感じられます。

大学の知り合いの実験君というひとが、私のことをずっと観察して、「何十年も同じ場所をぐるぐる廻っているだけ」と評したということは以前いいました。そのとおりだと思いますが、私はいい加減そういうことがいやになっているのです。

そのような円環から出るにはどうすればよいか。実験君は死ねばいい、といいました。私もそう思います。

ただ、そのような実験君のことを私が友人であるなどとはすこしも思わない、というのもまた事実です。

生きる気ならないのに、他人から死ねといわれると不愉快というのは矛盾ですが、しょうがないでしょう。

実験君のことも含めて、私は友人には恵まれなかったと思います。他方、フーコーは、ギベールが書いていることを信じるならば、晩年、交際範囲を縮小したのだとしても、それこそギベールとか、いい友達が沢山いたんだなあ、とは思います。

そういうことは運不運の問題だと思うので、致し方がないでしょう。

ドゥルーズが若い頃のプルースト論で、愛は友情にまさり、芸術は哲学にまさるといっていましたが、そのようなことをいったのはそのときだけ、生涯でただ一度です。彼は後年、哲学とか友の考察に立ち返ります。友、友情というのはすぐれて哲学的な問題なのです。ジャック・デリダに『友愛のポリティクス』という素晴らしい著作があります。私はデリダを好みませんが、この著作だけは例外です。

ドゥルーズが哲学者には「友人」がいると書いたとき、そのことに批判的だったのですが、しかし実際その通りだと思います。フーコーはいうまでもなく、古代におけるプラトンアカデメイアとか、「エピクロスの園」のことを想起してみてもいいでしょう。特にエピクロスは、哲学仲間を友人と看做し、そのように遇していた。彼のところには、身分の賎しい、差別されていたような人、例えば売春をしていた女性などもいたのですが、彼はどんな人も決して分け隔てしなかった。

「暗い人」と渾名されたヘラクレイトスのような強烈な人間嫌いはむしろ例外でしょう。ただ、彼の場合、詳しい事情は忘れましたが、政治的な事情があったと思います。彼はなにか政治のことで怒っており、そのせいで、ポリス(都市国家)の運営への協力を求められても断り、道端で子供達と遊んでいるほうがいい、といったのです。

ヘラクレイトスは生々流転(生成)を絶対的に肯定する大胆な哲学者ですが、ただ、彼が書き残したものには明らかに、政治、当時の都市国家への強烈な憎悪や呪詛があります。このことはすこし考えてみる価値のある問題です。プラトンは『国家』『法律』を書き、アリストテレスは『政治学』を著しましたが、ヘラクレイトスなら絶対にそのような本を書かなかったでしょう。

哲学者と政治というのも、ややこしく微妙な問題です。例えばニーチェは、妹によって、死後、ナチにされてしまいました。しかし彼本人は、彼が正気で生きていた当時の、つまり19世紀後半のドイツの帝国主義的な政治体制に強い嫌悪と批判を持っていました。哲学者ではないですが、漱石のような人も、生涯、「明治の元勲」を罵倒してやまなかった。ハイデガーナチスに加担したというようなことも、そんなに単純に考えないほうがいいでしょう。確かに彼はナチスの運動の「内的な偉大さ」を称賛しましたが、しかし、人種主義のような粗雑な理論には一貫して反対だったのです。

ただ、ハイデガー個人が粗雑な人種主義、ユダヤ人迫害、強制収容所での虐殺などに賛成していなかったとしても、それでも彼がナチであったことには変わりがなく、身近な人を殺されたユダヤ人がそのことを許せないと思うのもまた当然でしょう。どこで読んだのか忘れましたが、こういう話があります。パウル・ツェランという偉大な詩人がいます。彼が、亡くなる数年前、ハイデガーを訪ね、ハイデガーナチスへの加担を糾弾した、問い詰めたということがあったそうです。ハイデガーの応答は、ただひたすら沈黙であったと聞きます。言い訳もしなかったが、謝罪も一切しなかった。そのことだけが原因ではないでしょうが、ツェランはセーヌ河に身を投げて自殺してしまいます。ツェランハイデガーの「不幸な出会い」は1967年8月1日、ツェランの自殺は1970年4月20日です。ハイデガーは、ツェランが帰った後にそういったのでしょうが、「ツェランは病気だ。癒る見込みはない」と冷ややかに言い放ったそうです。

ツェランの詩は、そのあとルーマニア出身の彫刻家ブランクーシュ(1876-1957)との、おそらく彼が残したアトリエでの、架空の、しかし想いの深い対話や、ハイデッガーとの不幸な出会い(1967.8.1)「トートナンベルク」(III, 57)などを遍歴してゆく。後者の状況については、バウマンの報告にくわしいが、私にわかるのは、ツェランの奇矯な言語に対するハイデッガーの「ツェランは病気だ。癒る見込みはない」という冷やかな発言と、挨拶詩ともいえるツェランの詩のなかのオルヒス(はくさんちどり、また睾丸)や、"Krudes"(消化しにくい、粗野・粗暴なもの、原意は血にまでさかのぼる)や、最終行「湿ったものがいっぱい」("Feuchtes Viel")という、いわば、せいいっぱいの対抗である。もともとハイデッガーの住む「トートナウベルク」にはTod(死)のみならず、ツェランの両親を虐殺した組織の名"Todt"も、収容所名"Aushwitz"も半ば入っている。ヘルダーリーン、リルケ、トラークルなどについて、やたらにエチュモロジーの迷路を作ったこの哲学者に対して、少なくとも詩の領域からいえば、この"Feuchtes viel"は、ツェランの自分自身への絶望もこめながら、正確なクリティックになっている。」(生野幸吉『闇の子午線 パウル・ツェラン岩波書店、p.287-288)

ヘラクレイトスについて。「彼はまた、自分の友人のヘルモドロスを国外追放にしたということで、エペソスの人たちを攻撃しているが、そのなかでは、次のように述べている。「エペソスの人間なんて、成年に達した者はすべて、首をくくって死んでしまったほうがいい。そして国家は、未成年者の手にゆだねるべきだ。彼らは、ヘルモドロスという、自分たちのなかでもいちばん有用な人間を、『われわれのうちには、いちばん有用な人物なんか一人もいらない。誰かそんな人間がいるなら、どこかよその土地へ行って、ほかの人たちと暮らすことだ』と言って、追い出したのだから」と。そしてまた、エペソスの人たちから法律を制定してくれと頼まれたときも、その国はすでに悪しき国制の下におかれてしまっているからという理由で、彼はその要請を拒否したのだった。/そして彼は、アルテミスの神殿に引きこもって、子供たちと骰子遊びに興じていたのだが、あるとき、エペソスの人たちが彼を取り巻いて立っていると、「このろくでなし者めが! 何をいったい、お前たちは驚いているのか。お前たちといっしょになって政治のことにかかわるよりは、ここでこうしている方がよっぽどましではないかね」と彼は言ったのだった。」(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(下)』加来彰俊訳、岩波文庫、p.91-92)

ツェランハイデガーの不幸な出会いについて私見を述べれば、「ツェランは病気だ。癒る見込みはない」というのは事実その通りだったのでしょうが、しかしツェランがそうなってしまったのは、ナチスに両親など身近な人々を虐殺されてしまったせいでしょう。そのことを考えると、ハイデガーの発言は余りに非情だと感じます。ツェランが「奇矯な言語」で「せいいっぱいの対抗」をしたいと思っても、当たり前なのではないでしょうか。