近況アップデート

おはようございます。

NAMが解散してしばらくして、柄谷さんが福田和也と対談をし、それをNAMの会員であった友人が聴きに行ったそうです。友人の話では、柄谷さんが、NAMはナチのようなもので(「ナム」と「ナチ」は発音も似ている)、自分はハイデガーのようなものだ、つまり思想を単に考えただけでなく実行したのだ、と誇っていたので、がっかりした、ということでしたが、私もそれは残念だと思いました。というか、彼はNAMを始めた頃もどこかでそういうことを書いていたのです。つまり、ハイデガーはナチに入るというかたちで自分の思想を「行動(実行)」した、単に考えられるだけで「行動(実行)」されない思想は無意味である、だから自分もハイデガーのように「行動(実行)」するのだ、つまりNAMを設立するのだ、というようなことでしたが。

客観的にいってNAMがナチのようなたいそれたものでなかったのは自明ですが、柄谷さんが自分をハイデガーだと看做してしまう、というところに彼の強烈な自己愛を感じます。私の観察では彼はずっとそういう感じなので、たぶん死ぬまでそのままというか、治らない(というか、治す気もない)だろうと思います。

NAMを作った頃柄谷さんがよく文壇バーで酔い潰れては、NAMの原理を考え出した俺は神だ、キリストだ、とか言い張り、しかし周りは誰も相手をしなかったということがあったという話を後に聞きましたが、まあそういうものでしょう。つまり、誇大妄想ということです。

NAMに参加したとき、私は当然、柄谷さんの本音がそのようなものであったことを全く知りませんでしたが、もし知っていたら、自分のことを神、キリスト、ハイデガーとか思い込んでいる自己愛で誇大妄想の人と付き合うのはしんどいなあ、と思ったことでしょう。

柄谷さん個人の本音というかご自覚がどうだったか、ということとは相対的に別箇に、NAMの原理というか、理論的言説の核心部分に、合理的に読解できない部分が多々あるということもあります。NAMの理論にはマルクスマルクス主義)からは導けないことがふたつ、入っています。ひとつは地域通貨、もうひとつはくじ引きです。

地域通貨はともかく、くじ引きについて、著者名も本の題名も忘れましたが、マルクス学者が国家論を検討した著書があり、そこで、柄谷さんはプロレタリア独裁とはくじ引きのことであるといっているが、支離滅裂で理解できない、と書かれていました。それはそうでしょうが、プロレタリア独裁がどうのという以前に、どのような経緯でくじ引きとかいうアイディアに到達したのかという点が余りはっきりしていません。

私が知っている範囲でいえば、NAMを設立する前に、理論を検討するメーリングリストがあり、そこに山城むつみさんとか複数の批評家が入っていた、ということがありました。柄谷さんがくじ引きのアイディアを最初に言い出したのはそこだと思います。どこでそのような文献を発見したのかも、どういう文脈で応用可能だと思ったのかも判然としませんが(というのはその著者は政治的にはどちらかというと右派、保守派だったからです)、著者名も書籍なり論文の題名ももう忘れましたが、英語で書かれた政治学の論文、それがくじ引きというアイディアの出処、源泉です。そこまでは判明していますが、しかしそれだけです。

確かに、「プロレタリア独裁」と結びつけるのはさすがにこじつけだと思いますが、古代の都市国家からずっと、民主制(民主政)を担保するものとしてくじ引きという技術が考えられてきたという事実(西欧の政治学的思考の伝統)はあります。ダグラス・ラミスの著書にすらくじ引きというアイディアは言及されている。ただ、それを現代の政治において全面的に採用しようとかいうことは、もうすこし慎重に吟味するべきであった、とは思います。

調べてみましたが、ベンジャミン・バーバーという人の『強いデモクラシー』ですね。Benjamin Barber "Strong Democracy - Participatory Politics for a New Age" (University of California Press, Berkley 1984.)

さらに調べますと、2009年に邦訳もされていますね。原著は1984年です。ベンジャミン・R.バーバー『ストロング・デモクラシ──新時代のための参加政治』(竹井隆人訳、日本経済評論社)です。バーバーの議論は、2000年に英語で一部を読みましたが、もう忘れていますので、邦訳できちんと読んでみようと思います。

ストロング・デモクラシー―新時代のための参加政治

ストロング・デモクラシー―新時代のための参加政治

Strong Democracy

Strong Democracy

さて、くじ引きや地域通貨はともかく、協同組合、特に生産協同組合(労働者協同組合)の重視という考えは、『資本論』に明記されています。だから、柄谷さんが、協同組合主義という意味で自分は他の左翼(エンゲルスレーニン等)よりもマルクスに忠実だと考えたとしても、べつに間違っているとは思いません。ただ、問題は他のところにあると考えます。

協同組合主義の運動は国内外で昔からあるし、日本でいえば日本労働者協同組合連合会とか協同総研があります。運動とはべつにしても、戦後の福本和夫は、戦前の彼がルカーチに影響されて主張していた「福本イズム」から、協同組合を重視する考えに変わっていました。ただ、それが圧倒的に成功して世界を覆うとかいうことになっていません。

言い忘れていましたが、『第三世代の協同組合』とか相当面白い著書が多数ある石見尚も福本和夫の弟子、というか、晩年親しく付き合った友人ですね。

私の疑問は至って素朴なもので、『資本論』に書かれてあるからそれがなんなんだ、ということです。晩年のマルクスは確かに、株式会社が資本制の消極的な揚棄であるのに対し、生産協同組合のほうはそれの積極的な揚棄だと書きました。しかし、マルクスがそう書いたからそのようになるのだとは思いません。そしてマルクスがそのように書いた19世紀末のヨーロッパの社会状況と現代、現在の社会状況は当然全く違います。19世紀に考えられたことが今日そのまま無批判に通用するとは思いません。

柄谷さんが突然意見を変えて、Qは駄目だ、と全否定し、叩き潰さなければならないと言い出したのも、『資本論』と合致しない、『資本論』のロジックで根拠づけられないからというのが理由だったわけですが、地域通貨の正当化に『資本論』が必要だという理屈が全く分かりません。それと彼は、Qで世界同時革命などと妄想するのは、よど号をハイジャックしてピョンヤンに飛んで行ってしまった赤軍派と同じくらい非現実的、夢想的だとも言いましたが、私の知る限り「Qで世界同時革命」などと言っていた人は誰もいません。つまり、彼は存在すらしていない敵を勝手に彼自身の想像力で捏造して攻撃していただけなんです。

他の人も同じだったと思いますが、私の認識ではLETS-Qというのは地域通貨をインターネットで取引できるようにしてみましたというだけで、それ以上でもそれ以下でもありません。ささやかで、地味なものです。そのようなことと、「世界同時革命」がどうのというようなことには千里の隔たりがあります。それだけ飛躍した発想をしていたのは柄谷さんただ一人であった、ということです。つまり彼は、かつての自分を一所懸命否定していたのです。そういう一人相撲に付き合わされた我々はたまったものではありませんが。

プロレタリア独裁」がどうのという議論もそうですが、「世界同時革命」云々もそうだけれども、柄谷さんはマルクス主義、左翼の用語や概念を自分勝手に定義して滅茶苦茶な使い方をしてしまう、それなのに自分だけが真の左翼知識人だなどと思い込んでしまうという傾向があるように思います。

さらにいえば、これは柄谷さん(NAM)だけではなくて左翼知識人全般にいえることだと思いますが、議会主義、社会民主主義の全否定というのは妥当なのでしょうか。前に言及した武井昭夫さん(HOWS)が生涯『思想の科学』に拠るリベラルを罵倒し続けたというのもそうですが、左翼知識人の一部には(すが秀実さんもそうですが)、右翼、右派、保守派を叩く前にリベラルや社会民主主義者を叩く、という態度があります。近親憎悪のようなものです。でもそういうことでいいのでしょうか。

「でもそういうことでいいのでしょうか。」と疑問形で書きましたが、勿論現在の私は、そういうことではよくないと思っています。武井さんが、加藤典洋の『敗戦後論』の戦争責任論が駄目だと言い、そのような議論を生まれさせてしまったのは『思想の科学』のようなものに責任があると言っていましたが、そういう議論はちょっと行き過ぎではないかと考えます。ちなみに私は社民党に入ろうとしたこともあります。ただ、支払う党費がなかったのです。それで入れませんでした。

NAMは議会政党には関わらない「純粋」なものだという論法ですが、柄谷さん自身は、非常に都合の良い割り切り方をしていました。NAMで、早稲田大学の大隈講堂で柄谷さんの講演だかシンポジウムをやったことがあります。そこで柄谷さんがいっていたのはこういうことです。NAMそのものは、絶対に議会とか政党に関係しない。しかし、それでは現実に何をどうこうすることもできない。しかし、NAMの「プロジェクト」はNAMそのものとは別個の存在だ。だから、NAMそのものではなく、プロジェクトのメンバーとしては我々も民主党の議員に会って働き掛けたりというようなことも(心ならずも)やるのだ、というようなことでした。しかし、NAMとそのプロジェクトは別のものなのでプロジェクトとしては議会や政党に働き掛けても矛盾しないなどというのは、ただ単に言葉遊びというか、NAM側だけにしか通用しない手前勝手な議論というか(面会される議員のほうは、相手がNAMかNAMのプロジェクトか、などという区別をしません。同じ生身の人間なのだから当たり前のことです)、屁理屈だと思います。

柄谷さんはメーリングリストで岡崎さんと対話して、NAMはドゥルーズのいう純粋潜勢態(ヴァーチャリティ)なのだ、などと言っていましたが、ドゥルーズの専門家のはしくれである私に言わせますと、この人は何を適当なことを言っているんだろう、ということでしかありません。柄谷さんの理屈ではNAMは純粋潜勢態なので「何もしない」のだということでしたが、それは非常に奇妙な「社会運動」ではないでしょうか。現実に全く何もしないしする気もないのであれば。

多分柄谷さんの頭のなかでは、組織のありかたのイメージがあったのでしょうが、それを言語化することに、公刊された著書においてもNAMとかQのMLにおいても成功していません。こういうことがありました。本来QプロジェクトのMLは、どのようにして地域通貨を実現するかという実務的、実際的なことを話すべき場ですが、一部の人(柄谷さん、西部さん、岡崎さん)が組織論にかかわる「理論的」で高尚?な議論に没頭してしまい、現実的にどうするのかという話を一切無視してそれに没頭してしまったということがありました。要するに、NAMのプロジェクト、例えばQプロジェクトはNAMの内なのか外なのか、NAMに属するのかどうか、というようなことですが、彼ら知識人の考えでは内でもあり外でもあるのだ、というような意味不明なことが結論でした。プロジェクトはNAMではないが、しかし、彼らの表現では「NAM的な遺伝子」を「散種」するのだというようなことです。

それで宮地さんというひとが、じゃあQのプロジェクトはNAMとは別ということでいいんですね、とかうっかり発言したんですね。柄谷さんは即座に否定しました。あなたの考えはヒュームと同じです、単なるアナーキズムです、とかいって。

哲学を使うな、とはいいませんよ。けれども、彼らが大陸合理論(デカルト) / カント / イギリス経験論(ヒューム)を引き合いに出して政治的な組織論を展開するそのやり方は、余りに粗雑で読むに堪えません。もっと重要なのは、一年後、柄谷さんが自分がそういう議論をしたことをすっかり忘却してしまい、QがNAM(自分)の思うようにならないので非NAM的、反NAM的になったなどと言い出して潰そうとしたことです。結局そういうしょうもない結論になってしまうのならば、かつてのあなたがたの一見「高尚」な議論になんの意味があったんですか、と言いたくなるとしても当然です。