エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』(佐宗鈴夫訳、集英社)、p.70-71.

ミュージルは亡くなる数カ月まえ、グラシン紙のカバーの『自省録』を書棚からとり出し、愛読書の一冊だと言って、ぼくにくれ、心の安らぎをとりもどすために読むよう勧めてくれた。(中略)『自省録』をもらったとき、ミュージルから聞いたことだけれど、マルクス・アウレリウスは先輩たちや一族のさまざまな人々や先生たちから生きていくうえで為になることを教えられたり、与えられたりしたために、とくに感謝の気持ちを抱き、まずはじめに亡くなっている人々に感謝して、彼らにたいする賛辞の執筆にとりかかったのだった。数カ月後には死を迎えることになるミュージルは、そのときそういう意味でのぼくへの賛辞、たぶん彼に教えてやれることなどなにひとつなかったぼくへの賛辞を、近いうちに書くつもりだった。

エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』(佐宗鈴夫訳、集英社)、p.97-98.

ミュージルは廊下のはずれの救急治療室へ移されていた。手を消毒し、手袋をはめ、ビニールの靴をはき、上っ張りを着て、帽子をかぶらなければならない、とステファンヌからまえもって聞かされていた。救急治療室はおどろくほどごたごたしていて、黒人がミュージルの姉に注意をしていた。こっそり食べものをもってきたからだった。これはいけないことになってるんですと言って、彼はバニラのフランの入った小さな容器を床に投げすてた。ナイトテーブルのうえに置かれているものも、すべて禁じられていた。衛生上の理由と、緊急時に看護人の活動の邪魔になるからである。ここは図書館ではありません、と彼は言った。そして、ステファンヌが出版社からもってきてくれた印刷所からとどいたばかりのミュージルの本をつかむと、これこそここには必要のないものです、必要なのは病人と治療器具だけですと宣言した。ミュージルは目顔で、なにも言わずに出てってくれ、と合図した。精神的にも、彼はひどい扱いをうけていた。六月の太陽は不幸にとってこのうえない侮辱だった。ぼくはその太陽に照らされた病院の中庭で、ミュージルは死ぬのだ、長くはないと悟った。ステファンヌから聞かされたときは信じようとしなかったから、はじめてそう思ったのだ。その確信が、すれちがう人々の目のなかに映っているぼくの顔をゆがませた。流れる涙で、顔はくしゃくしゃになり、ぼくはそれがこなごなに砕けちるような叫び声をあげた。たまらなく悲しかった。まるでムンク「叫び」だった。

エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』(佐宗鈴夫訳、集英社)、p.102-103.

窓ガラスごしに見ると、またミュージルが白いシーツをかけて、目をつぶっていた。シーツから出ているのは手か足か、それに札がつけられている。もう病室に入ることも、キスをすることもできないのだ。看護婦をつかまえ、白衣をつかんだまま廊下のほうへ押しやった。「亡くなったのはほんとうなんですか? ええ? ほんとうに亡くなったんですか?」そうだと言ってもらいたくなくて、あわてて駆け出した。ぼくはエチエンヌ・ダオーから教えてもらった自分が先に死んだら、という歌をうたいながら、オーステルリッツ橋のうえを走った。《もしわたしがあなたより先に死んでも/わたしがそこにいると思ってほしい/私は雨や風といっしょになる/太陽や自然の力といっしょに/そして、あなたをたっぷり愛撫してあげる/ここちよく、さっぱりと/あなたの好きなように/もし気づかなくても/わたしだってことはすぐにわかる/意地悪をしてあげるから/わたしは嵐といっしょになる/そして、あなたに痛い思い、寒い思いをさせてあげる/わたしの悲しみのようにはげしく吹いて/けれども、思い出してくれなければ/雨にさよならをしなければならない/太陽や自然の力にも/ほんとうにあなたとお別れするの/みんなともお別れするの/あとは風が吹くばかり/なにごともなかったように》ぼくはオーステルリッツ橋のうえを飛ぶように走った。道行く人たちのまだ知らない秘密を、ぼくは握っているのだ。それを知ったら、みんな顔色を変えるだろう。夜のニュースでは、ミュージルのお気に入りのクリスティーヌ・オックランが澄んだ笑い声を彼におくっていた。ぼくはダヴィッドの家に立ち寄った。ジャンがきていて、二人とも上半身裸になり、あちこち掻いている。ヘロインを吸って、悲しみに耐えているのだ。ぼくもすすめられたけれど、また外に出て、歌をうたいつづけることにした。