精神内界の光景

昨日紹介した《■トラウマを生きる〜身代わりの人格 その1【絵画によるメールカウンセリング】》ですが、内容は衝撃的です。《参考図書:解離の構造〜私の変容と<むすび>の治療論(柴山雅俊)》から引用した後に、メルマガの著者がコメントしていますが、「エリは壮絶な世界に住んでいます。/神社にお参りするたびにバラバラになった頭が降ってくる、そんな為すすべのない世界です。/絶望としかいいようのない世界です。/その絶望を引き受けてくれているから、アザミは生活を続けることができるのです。」とのことです。私は多重人格というものが本当にあるのか、どうかは知りませんが、言われていることが精神内界の象徴的光景であると解釈すれば十分に理解できます。ヘーゲルの若い頃(イエナ期)の草稿に、自己がばらばらに裂けてしまうような、そういうほとんど狂気といってよいような内容の記述があるはずですが、そのことを連想しました。

私はシェリングヘーゲルを余り知りませんが、彼らの論述の一部が危険な領域に接近しているようには感じます。彼らは、例えば神を語っているつもりなのですが、どうみても通常の宗教的信仰とはかけ離れてしまっています。勿論それを心理的、心理学的に解釈してしまってよいということではありませんが、或る種の病理的な心理状態を描写したものと捉えれば、納得できる部分もあります。

またドゥルーズであれば当然、器官なき身体(CsO)の概念に行き当たります。それを合理的に解釈するのは困難だと以前いいました。ただ、或る種の状態において、身体感覚が変容していくという体験があり得るということであれば、それは分かります。

私はできるだけ合理主義的でありたいですが、しかし、限界もあります。「神社にお参りするたびにバラバラになった頭が降ってくる、そんな為すすべのない世界です。」とかいわれても、それを合理的に理解することはできません。しかし、そのような心的現実、心的経験があり得ないなどと断言する権利は全くないでしょう。自分には分からないから、それはないのだ、とはいえません。

投稿したのですが、反映されませんので、もしかしたら二重になるかもしれませんが、もう一度書きます。精神病理学の門外漢の推測ですが、「神社にお参りするたびにバラバラになった頭が降ってくる」というような病態は、昔なら分裂病水準の妄想・幻覚と看做されてもおかしくないのではないでしょうか。しかし、今現在はそのようにはいわれない。精神病理学、精神医学、精神分析学、臨床心理学の発達や変化もあれば、患者の病態そのものの歴史的な変容というものもあったでしょう。逆に、昔、分裂病といわれていた人で、そうではなかったのではないか、と意見が出されている例もあります。著名な人を一人だけ挙げますと、セシュエー『分裂病の少女の手記』(村上仁・平野恵訳、みすず書房)のルネです。

「その後の経過は、だいたい本文にある通りであるが、典型的な影響妄想、幻聴、緊張病性興奮や昏迷など、重症の分裂病に相当する症状が長く続いた後、セシュエーの献身的な努力及び小児に対する遊戯療法に似た、人形やリンゴその他の象徴を媒介とする療法によって、完全な治療が見られるに至ったのである。なおルネの発病の頃はインシュリン衝撃療法や向精神薬療法などの発見される直前なので、ルネは全くこれらの療法を受けていない。」(同書、p.157)とのことですが、幾つか疑問があります。

それはそもそも、彼女が分裂病であったのか、どうかということです。そして、薬物療法を「全く…受けていない」彼女が、遊戯療法に似た精神療法だけで「完全な治療が見られるに至った」というのは果たしてあり得るのか、ということです。

実際、訳者による「改訂版へのあとがき」(昭和46年4月)によれば、「なお、ルネはその後も生物学研究所で元気に働いていたが、著者セシュエー夫人が数年前亡くなられて後、一時症状が再発したという噂を聞いた。詳細は不明であるが、彼女が再び回復して健在であることを祈る。」(同書、p.161)とあります。

しかしそれでも、セシュエーのこの本は当時非常に広く読まれました。吉本隆明の『心的現象論序説』は、「精神分裂病とはなにか? そして、心的現象としての分裂病概念とはなにか?」(同書、p.79)という問いに、セシュエーが刊行した本の読解によって答えようとしています。吉本の著書が出たのは1971年ですが、当時は、参照可能な文献が少なかったのです。

まあ言いたいのは、誰が分裂病と診断されるかどうかというのは、時代によっても、そのおりの精神医学の考え方によっても、文化・地域によっても全く異なるということです。セシュエーのルネのように、異常体験があっても、治療者との感情的な結び付き(=感情転移)があり、精神療法が有効であったために、分裂病であることを疑われている患者もいれば、ブランケンブルク(『自然な自明性の喪失』)や初期の木村敏(『自覚の精神病理』)の患者のように、離人感、非現実感以外何もないのに分裂病とされる人もいます。究極的には診断の根拠は、医者の側が感じる「プレコックス感」しかないということになってしまう。簡単にいえば、それは「分裂病くささ」ということです。しかし、そのような単に経験的な直感(勘)しか根拠がないのであれば、それは果たして科学といえるのでしょうか。