抜き書き

ミシェル・フーコー + 渡辺守章哲学の舞台』(朝日出版社エピステーメー叢書)、p.19-20.

そういうわけで、精神医学が真実か否かということは、私にはどうでもよい。いずれにせよ、私が提出する問いはそういう問いではない。医学の言うところが正しいか正しくないか、それは病人にとっては大問題だが(笑い)、分析学者としての私には二の次の問題なのです。それに、真偽の分割をするだけの能力を私は持っていないのだし……。

そうではなくて、私の知りたいことは次のようなことです。すなわち、病気というものを、狂気を、犯罪を、人はどのように舞台にのせたかということであり、言いかえれば、人が病気や狂気や犯罪を、どのように見、どのように受け取り、それらにどのような価値を与え、どのような役割を演じさせたのか、ということです。つまり、私が書こうと思うのは、後になって人がその舞台の上で真偽の分割を樹立するようなそういう〈舞台〉そのものの歴史なのであり、私の関心は真偽の分割にはなく、〈舞台〉と〈劇場〉の成立そのものにあると言えます。西洋世界が、どのようにして、〈真理の劇場〉を、、〈真理の舞台〉を自らのために構築したか、つまり西洋的合理性のための舞台の構築そのものを問おうと思うのです。西洋文明はその政治的・技術的な力による世界支配という点ではすでに頂点を過ぎていますが、恐らく、この合理性の一形態だけは、他の世界に残すだろうと考えられるからです。真・偽の弁別の様態の一つであり、それは一つの演劇に他なりません。

同書、p.75-76.

この監禁体制は18世紀末まで続き、次いで、1792年に、かのピネルによる〈狂人解放〉という第二の変容が到来する。しかしピネルには、老人、不具者、労働意欲のない者、売春婦、リベルタンなどは釈放したが、〈精神疾患〉と認められる者は監禁施設の内部に留めたのであり、この解放は狂人には当てはまらなかったのである。つまり〈精神疾患〉と認められた者以外の者は、すでに形成された産業資本主義の第一の要請に従って、失業者の集団として、かの〈産業予備軍〉となり、労働者の低賃銀を確保しようとする経済政策を順調ならしめる役割を担わされることになったのだ。古典期における失業者消去のための大々的強制収容という方式は、今やこの産業資本主義にとっては有害なものとなった。また病院としてのシステムにも二重の意味を持ったわけであり、一方では身体的な理由で働けない者を収容し、医学的に治療して労働市場へ送り出すことと、身体以外の、つまり心理的とよべる原因によって働けない者を収容することが目的とされたのであった。

この時から、〈精神病患者〉という新しい人物が生まれるわけである。この人物もかの〈四重の排除方式〉によって得られるものであるが、今や、資本主義社会の要請に応じて、〈病人〉という資格を与えられたのである。医学的に治療して労働の回路に送り込まれるべき病人である。それが〈精神病医〉という新しい社会範疇の発生と不可分な関係にあることも明らかであろう。

現代の高度産業社会においても、狂人のあの〈民族学的規定〉は変わらない。しかしそのような古くからの〈排除のシステム〉の上に、資本主義はいくつかの新しい規範を、要求を作り出した。だからこそ現代のわれわれの社会では狂人は〈精神病患者〉という顔立ちを取るに至ったのである。精神病患者とは、ついに発見された狂気の真実の姿ではなく、狂人の民族学的歴史における、本来的に資本主義的な変形にほかならないのだ。

ミシェル・フーコー『狂気の歴史』(田村俶訳、新潮社)、p.558-559.

ヘルダーリンとネルヴァル以来、狂気に《陥った》作家、画家、音楽家の人数は増加してきている。だが、われわれは考えちがいをしてはならないのであって、狂気と創作活動とのあいだには、和解も、もっと恒常的な交流も、また言語活動の伝達もなかったのである。両者の対決は以前にもましていっそう危険であり、両者の否認は手厳しく、両者の働きは生死にかかわっている。アルトーの狂気は創作活動のすき間のなかに滑りこんではいない。その狂気は、まさしく営みの不在であり、この不在の繰返しあらわれる現存であり、はてしない不在のひろがりのなかで感受され測定される、それの中心的な空虚である。キリストであり同時にディオニソスであると自称した、ニーチェの最後の叫び声は、理性と非理性の境界における、また創作活動が集約される途上での、「アルカディヤの羊飼いとティベリヤッドの漁師」の和解という、理性と非理性との、最後に到達されるがすぐに消えさる共通の夢ではない。まさしくそれは創作活動の消滅そのものであり、創作活動が不可能となる出発点、創作活動が沈黙しなければならぬ地点である。槌は哲学者ニーチェの両手から滑りおちたばかりである。そしてゴッホは、自分の創作活動と自分の狂気が両立しないのをはっきり心得ていた。「医師たちに画を描く許可」を求めようと望まなかった彼は。

狂気は創作活動の絶対的な断絶である。狂気は一つの取消しの構成的契機、つまり時間のなかで創作活動の真実をうち立てるそうした契機を形づくり、その真実の外延・陥没線、空虚にさからう断面をあらまし示す。例えば、アルトーの創作活動は狂気のなかで自らの不在を体験しているけれども、こうした体験、こうした体験をくりかえし始める勇気、言語活動の根本的な不在にむかって投げつけられるすべての語、空虚をとり囲む、いやむしろ空虚と合致している、あの身体的苦痛と恐怖にみちた空間、これこそ、創作活動それじたいである。つまり、創作活動の不在という深淵に臨んでいる急斜面である。その狂気は創作活動の原初的な真実が危うく透きとおって見えそうになる、不決断の空間ではもはやなく、決定的にその真実が停止し永久に歴史のうえに突き出ている、その出発点にある決断である。ニーチェ1888年の秋に完全に狂人となったが、その正確な日付はどうでもよいのであって、その時以来、彼の書き記したもの(テキスト)はもはや哲学には属さず精神医学に属している。(中略)だから、狂気の最初の声がニーチェの傲慢、ヴァン・ゴッホの卑下のなかに、いつ忍びこんだかを知ることは重要ではない。狂気は創作活動の最終的な瞬間としてしか存在しない。創作活動こそは狂気をそのぎりぎりの境界まで際限なく追いやっているのであり、創作活動が存在するところには、狂気は存在しない、けれども、狂気は創作活動と同時期のものである、それこそは創作活動の真実の時間を始めるのだから。創作活動と狂気がともに生れ完了する瞬間、それは、世界がこの創作活動によって設定された自分を、またこの創作活動の前面にあるものに責任を感じている自分を見出す、そうした時間の始まりである。

ジル・ドゥルーズフーコー』(宇野邦一訳、河出書房新社)、p.82.

フーコーが『狂気の歴史』について反省するのは、それがまだ現象学風に、生きられた野性の体験を引き合いに出し、バシュラール風に、想像力の永続的な価値を引き合いに出しているからである。しかし、実際に知以前には何もない。

ジル・ドゥルーズフーコー』(宇野邦一訳、河出書房新社)、p.81.

フーコーは、彼が見るものによっても、また彼が聞き、読むものによっても、同じようにいつも魅惑され続けた。そして彼の考えた考古学は「視聴覚的な」古文書(アルシーヴ)であった(それは科学の歴史から始まることになる)。フーコーが、言表する喜び、他者の言表を発見する喜びをもつのは、彼がまた見る情熱ももっているからなのだ。何よりもまず彼を定義するのは、声、そしてまた眼である。眼、声。フーコーは、たえず見者であり続け、同時に言表の新しいスタイルを哲学にもたらした。異なる一歩とともに、二重のリズムとともに、二つのことを実現したのだ。

ジル・ドゥルーズフーコー』(宇野邦一訳、河出書房新社)、p.169.

カントによれば、時間は、そのもとで精神が自己に影響するような形態であった。ちょうど、空間が、そのもとで精神が他のものに影響されるされるような形態であったように。時間とはそれゆえ、主体性の本質的な構造を構成する「自己情動」であった。

【影響→触発、自己情動→自己触発ではないか?】

ジル・ドゥルーズプルーストシーニュ』(宇波彰訳、法政大学出版局、叢書ウニベルシタス)、p.38.

凡庸な愛も、偉大な友情にまさる。なぜならば、愛には豊富なシーニュがあって、沈黙した解釈でおのれを養うからである。芸術作品は哲学の著作にまさる。なぜならば、シーニュに包まれてあるものは、あらゆる明白な意味作用よりも深いからである。われわれに暴力を加えるものは、われわれの積極的な意志と、注意をこめた仕事のあらゆる成果よりも豊かである。そして、思考よりももっと重要なものとして《思考させるようにするもの》が存在する。

ジル・ドゥルーズプルーストシーニュ』(宇波彰訳、法政大学出版局、叢書ウニベルシタス)、p.196.

思考することを学ぶには、積極的意志や、作り上げられた方法では決して十分ではない。真実に接近するには、ひとりの友人では足りない。ひとびとは慣習的なものしか伝達しない。人間は、可能的なものしか生み出さない。哲学の真実には、必然性と、必然性の爪が欠けている。実際、真実はおのれを示すのではなく、おのずから現れるのである。それはおのれを伝達せず、おのれを解釈する。真実は望まれたものではなく、無意志的である。

ジル・ドゥルーズプルーストシーニュ』(宇波彰訳、法政大学出版局、叢書ウニベルシタス)、p.199.

恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。