アルチュセールの最後の書物からの抜粋

ルイ・アルチュセール『不確定な唯物論のために 哲学とマルクス主義についての対話』(フェルナンダ・ナバロ[聞き手]、山崎カヲル[訳]、大村書店)、p.63-64

こうしたことから考えられるのは、世界と同じく古い──大地の友の会は、プラトンイデアの友の会に先行します──唯物論の頂点とは、不確定な唯物論だということです。それは出来事や途方もない想像力に向かっており、また、政治をも含めた、いっさいの生きた実践に向かってもいる、世界の開けを考えるために必要なものです。

──出来事に向かって……ですか。

ヴィトゲンシュタインは『論理学・哲学論考』において、そのことをdie Welt ist alles was das fall istと、みごとに述べています。すばらしいけれども、翻訳が困難なことばです。「世界とは起こっていることの総体である」とでも試訳できましょうか。より字義通りに訳せば、「世界とは私たちに落ちかかることの総体である」とか「私たちに降り落ちてくるものの総体」でしょう。別の訳文、ラッセル学派の訳もあって、それは「世界とは事実の総体である」(the world is what the case is)というものです。

この途方もない文章は、いっさいを語っています。というのは、世界には、予見できないままに「私たちに落ちかかってくる」ような事実、状況、事物だけしかないわけですから。このテーゼによれば、相互にまったく区別された単独の事実や個体しか実在しないのですが、それは唯名論の基本テーゼなのです。

ルイ・アルチュセール『不確定な唯物論のために 哲学とマルクス主義についての対話』(フェルナンダ・ナバロ[聞き手]、山崎カヲル[訳]、大村書店)、p.54

──そうしたテーゼを再度取り上げて起源の問題を拒否している、その後の哲学として、なにか考えられますか。

私はハイデガーを思いつきます。彼は確かにエピクロス派でも原子論者でもありませんが、似たような思考の動きが彼のなかにはあります。世界の起源・原因・目的といった問題すべてへの彼の拒否は、よく知られています。しかしさらに、es gibtつまり「ある」(世界がある、物質がある、人間がある)という表現、また、「かのような」や「現存在」(da-Sein)という表現をめぐっての、一連の展開もあるのであって、それはエピクロスから鼓吹を得ています。ハイデガーの哲学は、世界のある種の超越的な偶発性を再建するようなヴィジョンに向かって開かれており、その世界に私たちは「投げ出されて」います。世界の意味も同様であって、それが存在の開けへと私たちを方向づけるのですが、その先には探求すべきなにものも、思考すべきなにものもないのです。かくして、世界は私たちに対するひとつの「贈与」なのです。

ルイ・アルチュセール『哲学について』(今村仁司訳、筑摩書房)、p.51-52

以上に述べたことから、こう言えるでしょう。世界と同じく古い唯物論──プラトンの言うイデアの友に対する大地の友の優位──のなかでも頂点をなすものは、偶然的唯物論であり、それは、出来事、未曾有の想像力、政治を含むすべての生きている実践に向けて世界が開いていることを考えるために、ぜひとも必要な立場なのです。

──出来事に向けて、とはどういうことでしょうか。

その点についてヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』のなかでうまいことを言っています。Die Welt ist alles was das Fall ist. すばらしい文章ですが、翻訳することがむずかしい。あえてこう訳してみましょうか。「世界とは到来するもののすべてである」。もっと文字通りに訳すと、「世界は上からわれわれに落ちてくるすべてのものである」。もうひとつの翻訳、ラッセル学派の翻訳はこうです──「世界は、ケースであるところのすべてのものである」(The world is what the case is.)。

このすばらしい文章はすべてを言い尽くしています。なぜなら、世界には、予告なしに上からわれわれに降ってくる事例(ケース)、状況、物しか実在しないからです。事例(ケース)、すなわち互いにまったく異なる特異な個物しか実在しないというこのテーゼは、唯名論の根本テーゼです。

ルイ・アルチュセール『哲学について』(今村仁司訳、筑摩書房)、p.44

──これらのテーゼを継承し、起源の問いをしりぞける後代の哲学を挙げることができるでしょうか。

ハイデガーを挙げることができます。彼はエピクロス派でも原子論者でもありませんが、彼にはそれと似たような思考の動きがあります。よく知られていることですが、彼は起源に関するあらゆる問い、原因と世界の目的に関するあらゆる問いをしりぞけます。けれども彼には「Es gibt」(「在る」、「かく与えられてある」)という表現をめぐる一連の展開がありますし、それらはエピクロスの着想と一致します。「世界、物質、人間たちが……在る(il y a)」。「Es gibt」「かく与えられてある」の哲学は、起源、等々の問いをすべてご破産にしてしまいます。そしてそれは、われわれがそこへと「投げだされて」いる世界と世界の意味の一種の超越論的偶然性を再建する道に開かれています。この世界の意味は、存在の開示に、存在の根源的衝動に、それを越えると探究すべきものも考えるべきものもなくなる存在の「送り届け」に通じていくのです。われわれにとって世界とは「贈与」なのです。

ルイ・アルチュセール『哲学について』(今村仁司訳、筑摩書房)、p.149-150

私はここ3週間来、不快な時を過ごしています。この夏と9月/10月に哲学(ニーチェハイデガー)を読んだ後で、私は突然に、かなり激しく、箍がはずれてしまいました。いまはかなり不愉快な一種の無為のなかにいます。

この状態をディアトキヌと一緒に検討してみましたところ、どうやらそれは「喪の作業」ではないかと気づきました。「喪の作業」はエレーヌ自身を悼むだけでなく、私が失ったもの、高等師範学校、この学校のなかの私の部屋、私の仕事、私の教え子たち、私の政治活動、等々のすべてを悼むのです。ところが私はこうした心の動乱を経ながらも、頭のなかに取っておいた一つか二つの考えをいつかきっと手掛けることができるのではないか、という気持をずっともち続けてきました(この考えは、ご存じのように、いつも哲学のまわりを回っていました)。こうした見通しがあって私は、大きな教養の穴を埋めるために、いや、むしろこれら二つの考えを鍛えなおす際に理論武装するために、ニーチェハイデガーを読み始めたのです。これは、あの心の動乱の前からの続きとしてあったのですが、私にとっては失うことはなかったし、手放してはならかった考えなのです。ところが経験が私に教えてくれましたように、これらの考えは、明らかに以前のもの、私が失わなくてはならなかったものの一部であって、ほかのものと同様にそれらの考えについても喪の作業をしなくてはなりませんでした。この服喪作業をほかならぬこれらの考えが残酷にも呼び起こして、私の手から哲学の書物を取り上げてしまったのです。

つまり、私がこれらの考えにいつか立ち返ることがないとも限らないのですが、当面は明らかに、それらを喪の作業のなかに封じ込めて、それらもまた放棄すべきものとして扱わなくてはなりません。

このように事実が知られ、なすべきことをしなくてはならないことのために、私は不安に似た不快な状態に置かれていますが……、欝状態もそう長続きしないだろうし、もっともてなしのよい岸辺に戻れるだろうと、期待していましょう。

ルイ・アルチュセール『哲学について』(今村仁司訳、筑摩書房)、p.175

私は、君にこの手紙を書くために、この2時間もの間、とほうもない努力をしてきました。いずれ多くの補足説明が要るでしょう。君が私を信用してくれるように、私も君を信頼していますが、私は力が尽きてしまいました。君に手紙を書くために、眠れない夜を利用しました。いま朝の4時です。少しは眠る努力をしてみます。医者たちが私を病院に送らないように、私がこのがらんとした部屋のなかで一人で苦境を抜け出すことができるように、天に祈って下さい。孤独とは恐ろしいものです。「孤独、それは誰も君を待っていないときだ」。

君をやさしく抱擁します

ルイ