夜の思索

Michel Camilo and Tomatito "Spain Again"を聴いています。敦賀明子 Akiko Tsurugaさんの"Sakura"も近日中に(明日か明後日?)届く予定です。楽しみです。ここ数日、ずっと有線放送のA-9【美食空間ジャズ】というソロピアノ、ソロギターのチャンネルを聴いていたのですが(哲学に熱中していて、CDを選択、交換する時間も勿体無かったので)、非常に素晴らしかった。ジャズを聴ける回路が沢山あって幸せだと感じます。

『相棒』の杉下右京警部を気取るわけではないですが(彼ほど有能でもない)、細かいことが気になってしまうのが私の悪い癖で、さっきも次のくだりが引っ掛かりました。

フロイトは、もっと正確に、シュレーバーにおける病気の重要なる転機を強調している。その転機とは、シュレーバーが、女性になることをみずから受けいれ、自然治癒の過程に入る時点のことである。この過程は、《自然=生産》という両者の一体化の境地にシュレーバーを導くことになるものである。(この境地は、新しい人間性の生産である。)」(市倉宏祐訳、p.31)

フロイトは、もっと正確に、シュレーバーの病気における重要な転機を強調している。それは、シュレーバーが、みずから女性になることを受けいれ、自己治癒のプロセスの中に入り、このプロセスが〈自然=生産〉という同一性に彼を引き戻すときである(新しい人間性の生産)。」(宇野邦一訳、p.42)

どこが気になるのかといえば、前も書いたように、どこで読んだのかは忘れましたが、シュレーバーは実は自然治癒(自己治癒)せず、晩年は廃人化、痴呆化して糞尿垂れ流し状態だったという情報を得ているので、ここで言われているのは本当かな、と思ってしまうわけです。勿論、私の記憶、情報のほうが間違っている可能性もあります。Facebookで指摘されたのですが、自殺率は統計的には下がっていると以前書きましたが、それは私の認識が誤りで、1998年以降自殺者は増え自殺率も上昇しているという統計データがあるとのことです。そのように、記憶だけで書いていると正確でない場合があるので、最近はできるだけ確認するように心掛けていますが、それでも、資料が手元にない(図書館など)とか限界もあります。

シュレーバー回想録』には2種類邦訳があり、いずれも優れた文章だということは以前書きました。ドゥルーズ=ガタリは、これをあれこれ「読解」していますが、しかし本当は、合理的に解釈することが可能なのか疑問です。何故なら、現代の精神医学でいえばどのような疾患に相当するのか知りませんが(統合失調症でしょうか)、狂人の妄想なのですから。シュレーバーがこれを堂々と出版できたのは、彼のそれまでの社会的地位が非常に高かったからです。そしてそれだけではなく、晩年には廃人になってしまったという私の情報が仮に正しかったとしても、一時的には本を書き出版できるくらいには快復したというのも事実なのでしょう。

私の記憶では、『シュレーバー回想録』の中心をなしているのは、以前紹介した「人間玩弄」という概念、そして「女性神経」という概念です。シュレーバーは、神が人間を、自分を玩弄する、弄ぶということで苦しんでいるのですが、彼は女性神経なるものによって「神の女」になることでそれに対抗しようとします。そのあたりのロジックは、私には意味不明ですが、フロイトからドゥルーズ=ガタリに至るまで様々な意見があるようですね。ただ、個人的には合理化不可能なものを無理に合理化せずともいいのではないか、と思うのですが。