昼の思索、続き

ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』(市倉宏祐訳、河出書房新社)、p.38

じじつ、何も秘密にする必要はないが、結局、フロイトは分裂症患者が好きではないのだ。かれは、オイディプス化に対するかれらの抵抗をきらっている。フロイト自身は、むしろかれらを獣のようなものとして扱おうとする傾向をもっている。フロイトはこういっている。かれらは言葉を物そのものだと思っている。かれらは無感動でナルシシストで、実在から切断されているので、かれらには転移の操作をほどこすことができない。「望ましい類似とはいえない」が、かれらは哲学者に似ている、と。

ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス(上)』(宇野邦一訳、河出文庫)、p.53

なぜなら何も秘密にする必要はなく、結局フロイト分裂病者が好きではないのだ。彼は、オイディプス化に対する彼らの抵抗をきらい、むしろ彼らを獣のように扱う傾向をもっている。フロイトはこういっている。彼らは言葉を物そのものと取り違え、無感動でナルシシストで、現実から切断されていて、転移をうけつけず、哲学者に似ている。「これは望ましくない類似である」と。

Gilles Deleuze, Felix Guattari, "L'Anti-OEdipe" Les Editions De Minuit, p.30-31

Car enfin, il ne faut rien se cacher, Freud n'aime pas les schizophrenes, il n'aime pas leur resistance a l'oedipianisation, il a plutot tendance a les traiter comme des betes : ils prennent les mots pour des choses, dit-il, ils son apathique, narcissiques, coupes du reel, incapables de transfert, ils ressemblent a des philosophes, "ressemblance indesirable".

Gilles Deleuze, Felix Guattari, "Anti- Oefipus: Capitalism and Schizophrenia", translated from the French by Robert Hurley, Mark Seem and Helen R. Lane, Preface by Michel Foucault, University of Minnesota Press, Minneapolis, p.23

For we must not delude ourselves: Freud doesn't like schizophrenics. He doesn't like their resistance to being oedipalized, and tends to treat them more or less as animals. They mistake words for things, he says. They are apathetic, narcissistic, cut off from reality, incapable of achieving transference; they resemble philosophers - "an undesirable ressemblance."

(引用終わり)

以上を探すために『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』を見てみましたが、昨日の話と関連させていえば、私に評価する資格や能力があるかはともかく、『アンチ・オイディプス』よりも『千のプラトー』ほうが遥かに優れている、と思います。いや、優れているかどうか、ということではないかもしれませんが、少なくとも遥かに内容豊富で面白いということは確かでしょう。しかし、さっぱり一般受けしなかった。だから、多数の読者に受け入れられるかどうか、とか、読書界で話題沸騰するかどうか、とか、売れるかどうか、ということと、論述の内容が卓越しているかどうかは関係がないのではないか、と思います。『アンチ・オイディプス』を倫理であるとか、非ファシスト的な内容だというなら、もっと強い意味で『千のプラトー』にはそういえるでしょう。しかし一般読者に読まれず、売れないし、黙殺に近い評価だったというのは、大衆文化状況において或る著書なりがどういう反応、反響でもって迎えられるかというのは、かなりの部分、偶然の要素とか、或いは「時代の空気」などと呼ばれる曖昧なものによるのではないかと思います。実際『アンチ・オイディプス』は、68年革命を思想化した唯一の書物、などとも言われたことがあります。当時の急進的な政治的雰囲気が、『アンチ・オイディプス』の激しいフロイト批判とマッチしたということが大きいのではないでしょうか。

フロイト(とユング)の話をする前に寄り道すると、ドゥルーズ=ガタリが絶讚したこともあってか、ガブリエル・タルドの『模倣の法則』その他の主著が新しい翻訳で出たり、タルドを積極的に参照した論考が翻訳されたり日本語で書かれたり、ということがありました。そのこと自体は良いことだと思いますが、ただ、私は実際に読んだのですが、タルドの議論や思想がドゥルーズ=ガタリの褒めるほど卓越したものだとは全く思いませんでした。例えばタルドは、当時(明治期)の日本のことを模倣の達人だと絶讚しているのですが、その当の日本人であるところの我々は、日本の近代化がそんなに単純に素晴らしいといえるものではなく、様々な問題を抱えていたことを知っているはずです。タルドは勿論とうに亡くなっているのでそれを知りませんでしたが、無謀な十五年戦争など昭和前期の日本を見ていたならば、それでも日本を模倣の達人、模倣の成功例と高く評価したかは疑問です。

さて、本題に入りますが、フロイトユングの話です。

ドゥルーズ=ガタリフロイト統合失調症患者のことを嫌いだったといっていますが、このことはちょっと考えてみるべき問題です。思想的にどうのというよりも、別種の現実の条件があったからです。

フロイトユングも同じ医者であったといっても、どういう条件で臨床をやっていたのかということが全然違います。フロイトは医者といっても、個人開業医でした。他方ユングのほうは、彼のことを詳しく調べたわけではないのですが、大きな精神病院に勤務していたはずです。

そこからどのようなことがいえるのかといいますと、フロイトの場合、好きか嫌いかという以前に、重篤統合失調症の患者、特に急性期の患者を診察したり治療できるような状況になかったということがいえます。実際、精神分析のための寝椅子しかないような診察室にいるフロイトのもとを、激しい発作を起こしている急性期の患者が訪れるなどということはあり得ないし、意味がありません。フロイトが診て症例報告を書いている患者のなかで精神病圏にあったと推測されているのは「狼男」症例だけです。だから『千のプラトー』でも「狼男」症例が分析されているわけですが、その「狼男」にしても、興奮して暴れるだとか、自傷他害の恐れがあるような患者ではありませんでした。

他方ユングは、統合失調症精神分裂病に積極的に取り組んでいました。現在の精神医学の水準からみてどう評価されるのかは知りませんが、『分裂病の心理』という初期の著作があったはずです。柄谷行人のような知識人らにおいては、ユングの評判は頗る悪い。単なる凡庸なロマン主義者、フロイトの発見を無にしてしまった、ナチ、とか散々です。私はフロイト人文書院の著作集で全部読みましたが(但し、これは非常に不正確な翻訳だったといわれているので、「読んだ」うちに入らないかもしれません。最近、岩波書店から新しい翻訳のフロイト全集が出ていますが、図書館で頼んだのに、何故か届きませんでした)、ユングはほとんど読んでいないのですが、恐らくそのような悪口にも根拠はあるのでしょう。ただ、私は、凡庸なロマン主義者だから、ナチに共感したから、思想的に全部駄目だ、というふうには考えません。

最後におまけですが、大学院を出た頃、ラカン精読掲示板で、フロイト郵便というホームページの管理人さん(カンリマンさん)と、カトリーヌ・ジャコブさんというジャン=リュック・ナンシーの弟子であった人と知的交流がありました。しかしその彼らとも完全に絶交してしまいました。ネットの縁というのは、貴重だとしても脆いものですね。さて、今回も維新赤誠塾の話にはなりませんでしたが、それはまた後ほど。

フロイト郵便
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