昼の思索

300-400冊、哲学書を出してきたといっても、全部読む(読める)わけでもなく、全てを愛しているわけでもありません。私の愛、共感は極めて限られている。例えば、ドゥルーズのなかで、或いは、ありとあらゆる哲学書のなかで、または、全ての本のなかで、私が一番好きなのは、ジル・ドゥルーズ、クレール・パルネ『ドゥルーズの思想』(田村毅訳、大修館書店)です。原書は持っていません。文学研究会(美学芸術学研究会)の或る先輩が、私にこの本の原書を売りたいと言ってきたことがあるのですが、私のほうはお金がなかったので断りました。最近、新しい翻訳が出ましたが、図書館でざっと読んだ程度で、精読したり、自分が持っている旧訳と突き合わせて厳密に比較対照したりはしていません。そのような気力もない、といいますか。新しい翻訳は、ジル・ドゥルーズ、クレール・パルネ『ディアローグ ドゥルーズの思想』(江川隆男増田靖彦訳、河出文庫)で、文庫化される前は『対話』という題名で単行本で出ていました。私が図書館で読んだのは、単行本のほうだったと思います。

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B0-%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3-%E6%B2%B3%E5%87%BA%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%B8%E3%83%AB-%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA/dp/4309463665

ちなみに翻訳をされている増田さんという方は研究室の先輩でしたが、検索してみると、非常に面白いテーマのことを現在調べているようですね。

働くことと「価値」
http://www.waseda.jp/prj-iip/th01_02.html

貨幣の探究
http://www.waseda.jp/prj-iip/th03_03.html

研究員の方々は、存じ上げている方ばかりです。
http://www.waseda.jp/prj-iip/member.html

トップページも紹介しておきましょう。「早稲田大学交域哲学研究所」です。
http://www.waseda.jp/prj-iip/index.html

増田さんは研究室の先輩だといいましたが、交流とか付き合いは一切、ありませんでした。一時Facebookで「友達」登録させていただきましたが、私が余りにも深刻な抑鬱状態に陥ったとき、「友達」を解消してしまいました。1100人以上いた「友達」の9割以上を解消しました。それほど深刻な精神状況であったということです。それは今も変わりません。

ついでに想い出話をすれば、学部の頃と違って、大学院では一切一人も友人を作らず、他者となにも関係しませんでした。当時から既に、他者と関わるのが厭で、拒絶していたのです。

ドゥルーズの本に戻れば、好きな本だといいましたが、前も書いた通り、読むことと生きることは当然、全く違います。もし仮にドゥルーズ的な倫理とか美学があるとしても、私はそれに従っているわけではない。具体的にいいましょう。但し、これから引くのは、ドゥルーズではなくパルネの文章かもしれません。それは特定できない。

p.84

(引用開始)

われわれに、距離と同一化という二つの罠を仕掛けるのは、世界そのものだと言わねばならない。世界には多くの神経症患者と狂人がおり、彼らはわれわれをも彼らの状態に引きずり落とし、彼らの毒、ヒステリー、自己陶酔、陰険な伝染病に感染させない限り、われわれを手放しはしない。殺菌された科学的視点へとわれわれを招く博士やら学者、そして真の狂人、偏執狂も多勢いる。二つの罠、すなわち感染と同一化の鏡がわれわれに仕掛ける罠、合意の眼差しがわれわれに示す罠、この二つを警戒せねばならない。

(引用終了)

p.85-86

(引用開始)

あなたの哀れな共感とやらであなたは狂人を利用し、狂気を賞賛し、そして彼らを見捨てて、あなたは川岸に踏みとどまる……という反論もあろう。それは正しくない。われわれは、愛しうるようになるために、愛から、所有、同一化をすっかり抜き出そうとしているのだ。狂気からは、狂気に宿る生を引き出そうと試みる、絶えずその生を死なせ生そのものに刃向かわせている狂人を憎みながらも。アルコールからは、それに宿る生を抽出しようと試みる、酒を飲まずに。水だけで酔払うヘンリー・ミラーの名場面を想い出そう。アルコール、麻薬、狂気なしですますこと、生成変化とはこれだ、より豊かな生のための酔払い=になること。これが共感であり、組合せだ。出世することの反対、ベッドを整えること、同一化の道化でも、距離を置いた冷酷な博士でもないこと。自分でベッドを整えて寝る、誰も布団を掛けに来はしない。同一化の太ったママ、または、距離を置いた社会的な博士の手で、布団を掛けてもらうのを望む人が多すぎる。確かに、狂人、神経症患者、アルコール中毒者、麻薬中毒者、伝染病患者らは、出来る限りそれなしですませて欲しいし、われわれの共感自体も、そのようなことはわれわれの関知しないことだという点にある。各人が各々の道を歩むべきだ。だが、そうしうるようになるのは難しい。

(引用終了)

現在の私がこのようなドゥルーズの主張に同意するかというと、全く同意しません。ドゥルーズが正しくないと斥けている、「あなたの哀れな共感とやらであなたは狂人を利用し、狂気を賞賛し、そして彼らを見捨てて、あなたは川岸に踏みとどまる……という反論」のほうが妥当で、ドゥルーズは文章は非常に巧いし美しいけれども、しかしただそれだけで、詭弁だと思います。それには自分なりの経験、体験、見聞などのせいです。狂気やアルコールを斥けながら、それらに宿る生だけを引き出そうといっても、そんなことは端的に不可能であって、単なる現実に無知な哲学者の妄想でしかない。実際、ドゥルーズ自身、『意味の論理学』を書いていた頃、アルコールの問題が深刻でした。彼が酒をやめたのは、彼の思想信条とはなんの関係もなく、身体疾患、肺病が重篤になってもう飲めなくなったというだけのことです。

話を変えますと、デス見沢先生と絶縁したといいましたが、それは非常に長い間彼の掲示板を閲覧してきて、「闇のソーシャルワーカー」と名乗っているけれども実際には精神科医である彼が、自殺したいという人にどういう返答をするか、大体ほぼ予測できてしまうようになったからです。いや、以前から分かっていましたが、もう読み続ける意欲がなくなったということです。以下に紹介しますが、彼の意見というのは、「「死」を抱いて生きな。」というこの言葉に尽きています。それでもいいのですが、しかし、それでは余りにも苦しい。

それから、食事をして後で、雨宮処凛が若い頃やっていた、維新赤誠塾について書きます。

Tamalunch Factory No Future(タマランチ工房)
http://www.dango.ne.jp/nofuture/index.html

闇の医療相談室入口
http://www.dango.ne.jp/nofuture/judgement.html

Q.541(消滅願望)
http://www.dango.ne.jp/nofuture/judgement58.html#Q.541

(引用開始)

A.541 質問者は生きてるよなあ。まあ今生きてないにしても、かつて生きてたという過去の事実は変わらない。過去とか事実とは何か。それは「他者の記憶」ということ。したがって、一度でも生を受け他人と交流を持ったものが、その記録も記憶もどこにも全く残っていない、ということはありえない。他人の記憶を消す方法は全人類、いや全生命体の抹殺、痕跡を残すのすら嫌だったら地球、いや宇宙ごと破壊するしかない。その「流産をしてきた子」というのも、しっかりと質問者の記憶の中に記録されてるダロ?

全宇宙を破壊することが自分に出来ないんだったら、この生きてきた痕跡を引きずって生きるなりなんなりするしかナイ。世界が有り続けるかぎり「無」は望めない。せいぜい「死」だけだ。しかも死は望む望まないに関わらずやってくる。

ていうか、そもそもこの投稿、質問者の「痕跡」になっちまうんだがネエ。

「死」を抱いて生きな。苦しみは薬で和らぐ。(回答者:デス見沢

(引用終了)

維新赤誠塾 伊藤秀人のホームページ
http://www.k5.dion.ne.jp/~hide-cha/