ドキュメンタリー

StickyBluesさんが僕を題材(主題)に撮影するドキュメンタリー映画は、「ドキュメンタリー」ではなく「ドキュソメンタル」「ドキュンメンヘル」じゃないか、と言ったら、彼から、そんなつもりで撮ってはいないのですが、と応答があった。まあそれはそうだろう(そうじゃなかったら困るw)。僕が言いたかったのは、そういうつもりで撮ってなくても結果的にそうなるのじゃないかということだ。というのは、僕の苦しみ、煩悶が、映画を観る人らにとっては喜劇的で滑稽に映るに違いないからである。「主観的には深刻、客観的には滑稽」。よくある話である。
StickyBluesさんは、ドキュメンタリー映画撮影は精神分析にも似ていて、自分の見たくない部分にも直面する辛い側面がある、と語っていたが、確かに僕には暗い側面というか影がある(しかしそんなもの誰にだってあるだろう?)。精神分析とはラカン風にいえば現実界、現実的(リアル)なものとの出会いだが、リアルなものとは「見たくない自分の姿」であるだろう。
僕はその「見たくない自分の姿」のことを「ドキュソメンタル」「ドキュンメンヘル」と呼んだのである。監督にその意図がなくても、画面にはドキュンメンヘルな僕の姿が映し出されるはずだ、という意味で。映画制作を精神分析的というならば、それは対象である僕にとっても監督、製作者であるStickyBluesさんにとっても「無意識的」であるはずだ。つまり、意識を超え出ているはずだ。僕はそう思うのだが、どうだろうか?