続き

ニーチェ坂口安吾が流行するような知的状況について言及したが、それを考察するのに、ジル・ドゥルーズが著した現代映画論(『シネマ2』)を参照するのが役立つ。

ドゥルーズによれば、現代映画を特徴づけるのは、ベルクソンが『物質と記憶』で説明したような感覚=運動的機構の弛緩である。簡単にいえば、通常、我々は、外界の刺激を感受し、それを適当なかたちで行動に延長する。しかし、何らかの原因でそれが阻害されると、純粋な光や音響が立ち現れる状況になる。

ベルクソンは、「生の哲学」、というよりも、生物学的哲学であって、環境に適応する有機体として人間を把握している。しかるに、彼はその機能不全は考察していない。それは、ドゥルーズの独創なのである。

では、ドゥルーズは、感覚=運動的機構の弛緩がどうして生じたと考えているのだろうか。彼の考えでは、第二次世界大戦の経験が決定的に重要である。

ドゥルーズの意見では、現代映画、戦後の映画は、戦争神経症的なのである(彼自身はそのような用語を使っていないが)。第一次世界大戦と異なり、第二次世界大戦においてはヨーロッパも戦場となり──日本もそうであるが──、多大な戦災が襲った。ネオレアリスモがイタリア発なのは、理由がないことではない。徹底的な破壊と混乱、秩序の崩壊、それが現代映画の発生の重要なモーメントであったし、坂口安吾的「堕落」が一般化する条件でもあるのである。

ドゥルーズが、純粋に形式的、美学的にではなく、歴史や政治というモーメントを導入して考察していることが決定的に重要である。哲学や文学、映画は形式的に自律的(自立的)たり得ず、歴史的、政治的文脈、状況のなかでのみ意味を持つ。我々の考察は、そのような凡庸な真実に帰着する。

(補足)
ドゥルーズ第二次世界大戦を重視しているのは、世界的にみれば例外的である。江藤淳も語っているように(『オールド・ファッションド』)、知識人にとって「古き良きヨーロッパ」の崩壊は、第一次世界大戦においてあるのであって、その典型はローレンスである。しかるにドゥルーズ第二次世界大戦を重視したのである。