ブログへのコメント

id:eaglegotoさんのブログへのコメントです。
幾つか論じるべき点があるように思うのですが。
まず、道具(道具箱)としての哲学(哲学書)という発想。これはフーコーにあったものですが、メルロ=ポンティ現象学からしても、ビンスヴァンガーのような精神医学への応用、シュッツのような社会学への応用など、現象学という道具で様々な領域を語るということがあったように思います。だから後藤さんが音楽批評、ジャズ批評のために道具箱として哲学書を活用しようということに何の問題もないです。
次に、理念化と反復可能性、そしてそれが必然的に孕む貧しさという問題。音楽は、記譜されている場合もありますが、最終的には音響というかたちで現象します。そして私達聴衆は、現実化された音楽としての音の響きを聴覚で受け止めているわけです。
ジャズの場合も、基本的なメロディなりコード進行は記譜できますが、即興演奏は記譜できない、というか、しても意味がないというか。パーカーやモンクを記譜した楽譜が存在するのは承知していますが、彼らの一瞬の即興演奏を神棚に祭るように崇め立てても仕方がないのではないか、と思います。
ジャズ以外の音楽の場合でいうと、今貧乏のためやめていますが、私は津軽三味線を習っていましたが、それは口承でした。三味線にも譜面があるのですが、譜面は使わず、先生が弾いて見せ、生徒である私はそれを見て学ぶ=真似るわけです。その繰り返しで、複雑な組曲などを身につけていく。
高橋竹山についてのホームページで、竹山が、津軽三味線をジャズと比較する議論について、津軽は本当にデタラメだからジャズの即興のような論理的なものではない、と語っていましたが、デタラメに即興できるのは師匠格の人だけで、私達下層の生徒らは、全く独創性のかけらもない、先生の口移し、猿真似に終始するしかありませんでした。先生は組曲の手を頻繁に変えるけれども、生徒には変える自由度は全くない。そういう意味で、津軽三味線はジャズとは全く異なった音楽だと思います。一言でいえば、自由がないのです。勿論、吉田兄弟だとか何だとか世に出ている人は違うのでしょうが、私のようなレヴェルではそうです。
譜面を使わないという意味で、理念化がほとんどなされていないかのように見える津軽三味線伝承でさえ、反復可能性が生じるためには、最低限度の理念化がなされています。そこに「言語」が媒介するかどうかは分かりませんが、観念化がなされているのは確かです。