哲学者=作家=音楽家と宗教

要するに自分と宗教、ということだが。
宗教家から見れば、私は冷淡というか、信仰心がないというか、熱中、没頭してそのために何かを犠牲にするタイプではない。非合理を非合理故に信じるのが宗教だとすれば、合理に徹するのが哲学なり科学の道であろう。私は後者に属している。
NAMは哲学的、科学的であるとともに宗教的、政治的でもあった。コミュニスト団体なんだから当然だろうが。そしてそこに集った人々のパッションも大きく、故にそれが崩壊する時に多くの人の心を深く傷付けた。私自身が、他者を傷付けた張本人である。柄谷行人もNAMと南無というエッセイを書いていたが、NAM崩壊後はNAMとナチなどと駄洒落を言っていた。しょうもないおっさんである。しかしそのしょうもないおっさんの魅力で、NAMは成り立っていた。
見終わったDVDで、被害妄想的になり他者を責める傾向も自罰的、自責的になり自分は駄目だと全否定する傾向も共に良くないと語られていたのが興味深かった。NAM会員は、俺は悪くないと開き直るか、Qに対して懺悔するか、いずれかしかやってこなかったのではないか。Q-NAMの一連の過程の真に合理的で科学的な分析なり捉え返し=総括はやってこなかった。総括というのは、悪かった面も良かった面も共に見るということである。開き直りも懺悔も、真の総括からは無縁である。その意味で、私も含め700人もいたNAM会員は誰一人、総括をやってこなかったと言える。
2003年に私が批判と総括を提起した時、NAM代表団らは時期尚早だと言ったものだ。だが、今2010年も暮れようとしているが、その後まともな総括は一つも現れなかった。時期尚早どころか、もう手遅れの観がある。そのことが悔しい気持ちもある。しかし、どうにもできない。
一旦ここで送る。