文章の不思議

私は、高校生、大学生の頃には、ウィリアム・バロウズの影響を受けて言語実験に熱心だったが(それは主に句読点を打たず、一ページ丸ごと続く意識の流れ的な長文という形を取った)、現在、実験精神はなく、私小説的なもの(というほど立派なものではないが)になっているというのは不思議なことである。
といっても、本格的な私小説ではない。私は、私小説を読んだことがないので、それを模倣することもできぬ。だから、正確に言うなら、単なる自分語りというべきだろう。
自分の文章が、延々と自分を語るだけで、他の何ものも語らぬ不毛なものと化したのはどうしてなのか、自分でも分からない。