続き

今時「党」的思考、唯一絶対の前衛党という思想を抱いている人は少ないと思う。だが、スラヴォイ・ジジェクの議論のレーニンを持ち上げる議論には、「党」が必要ではないかとの暗黙の問い掛けがあるようにも思われる。
しかし現状を普通に見れば、「党」は不可能だし望ましくもない。
合法政党としてある、日本共産党の周りに労働者大衆が結集するという図式は成り立たない。現行の選挙制度の中で、日本共産党が政権を獲得する可能性はゼロである。
といって、日本共産党以外に新たな前衛党を建設しようとする志向、例えば革マル派のようなものが支持を集めるとも、成功するとも思えない。
左翼政治のみならず一般的に、対抗運動において、「党」的、言い換えれば中央集権的で樹木状(ツリー)の組織は望ましくないようにみえる。
性的少数者の領域では、日本のgid.jpが中央集権的傾向が著しいようにみえるが、私はそれに賛同できない。
前も書いたが、ジュディス・バトラーらとレオ・ベルサーニの対比を、ネグリ=ハートらとジジェクの対比に重ね合わせることもできるのではないかとも思うのだが、後者の政治性も戦略としては分かるが、自分としては支持できないと思う。
多を多として肯定する、というのが自分の立場である。

忘れていたが、もう一つ、外山恒一ファシスト党があった。
左翼では党建設は不可能なのに、極右では党建設が進んでいるというのは情けないが、左翼が自発性や自由を重んじる限りやむを得ないだろう。