続き

いろいろと問題があると思う。
例えば柄谷行人トランスクリティーク』のカント&マルクス読解は、彼らを「批評」(批判)として読もうというものだと思うが、彼ら自身は「学」(学問、科学)を目指していたという齟齬がある。特にドイツ的な学問概念の由来はカントにある。『純粋理性批判』は学問を準備するものでしかないのである。ヘーゲルでいえば、『精神現象学』の位置にある。カントは、自然哲学と道徳哲学を確立するつもりだったし(苦闘したがうまくいかなかったが)、マルクスは歴史の科学、経済の科学を確立するつもりだった(未完に終わったが)。
もう一つの問題は、ガストン・バシュラールに始まるフランス独特の科学哲学であるエピステモロジー=科学認識論の問題である。
バシュラールは、それを自然科学にのみ適用していたが、アルチュセールフーコーは人文諸科学にそれを適用した。その拡張が許されるものなのかどうか。科学の科学性、学問の学問性というテーマに関わるが。
佐々木力は、ディアマート流の「科学的社会主義」という呼称に代替して、「学問的社会主義」という呼称を提唱していたが、どうなのだろう。マルクスの言説が、自然科学が科学であるのと同じ意味で科学であるのではないが、「学問的」ではある、ということだが。その場合、歴史の科学(学問)、経済の科学(学問)の科学性、学問性とは何によって担保されるのか、という問いが提起される。