三十五歳パートタイマー やれることがない その2(二千十年二月十四日日曜日、攝津正)

反動どころか、ファシストや犯罪者になりそうな自分がいる。他者への攻撃衝動を抑え難いと感じる自分がいる。加藤智大、金川真大、小泉毅に親近感を覚える自分がいる。
他の文章でも何度も引用しているが、闇のソーシャルワーカーデス見沢はいざとなったら「みんな頃して自分も氏ぬ」くらいの覚悟で、ということを言っている。勿論、そのくらいの意気込みでという意味であって、大量殺人を肯定・推奨しているわけではない。それにしても自分には、みんな殺すだけの度胸も、自ら死ぬだけの覚悟も、ないと思う。
石川啄木時代閉塞の現状という文章を書いているが、私の場合時代も自分も閉塞しているのを感じる。私は、言語、労働、性という人間の形象を構成する三要素の交通路が塞がれたら、人は人ならぬ人になってしまうと感じているが、私は非正規労働で、性貧(ペペ長谷川)である。精神(病)的にも不安定である。躁鬱の上がり下がりが激しく、自分で自分をコントロールできない。更に言えば吃りである。三島由紀夫の『金閣寺』の主人公=語り手も吃りであった。私は『金閣寺』を批評して、自分は金閣寺を「焼かぬ」選択、決断をしたと述べているが、それは宮台真司らの「終わりなき日常を生きろ」というのと何処が違うのか。金閣を焼かぬということは、行動「しない」ことの言い訳でしかないのではないか。しかし、「行動」するとは? 政治的に「行動」するとは? デモをすること? 暴動をすること? 私は、『悍』という雑誌の暴力燦燦という特集に収められている、植本展弘の「暴民哭々 近代成立期民衆の〈公怨〉について」というのに惹かれたが、題名に惹かれただけでまだ読んでいない。ちなみに植本は、私が最も高く評価する論客/活動家/表現者である。それにしても、私は暴力燦燦を称えることはできず、小ブルジョア的な自由主義の矮小に留まるしかないと思う。NAM以来、私は非暴力主義だが、それは単に「臆病」なだけではないか? 加害/被害、逮捕・弾圧等を恐れているだけではないか? 権力に迎合しているのでは?
自由主義の評価は左右両翼から低い。逆に言えば、極右も極左自由主義を欠いているということである。自由主義が、政治的・文化的なそれというより、経済活動や私有財産の自由を特に意味し、資本主義体制の擁護にしかならないという意味では、単に体制的な思想と言われても仕方がないかもしれない。だが私は、個人の選択の自由を最大限尊重する社会体制でなければ、例えば性的少数者は生き辛いと思うのだ。資本主義とゲイ・アイデンティティの結びつきは偶然ではない。ゲイは、「市場」においてしか性の相手を求めることはできないし、自分自身値踏みされる商品=身体となるのだ。ゲイの快楽を肯定するか? ゲイの快楽を肯定する享楽的な社会主義は可能か? フーリエ主義?
話は変わるが、私が遺憾に思ったのは、私が日雇い派遣で労災に遭い重傷を負ったり、或いは無職で多重債務を抱え「惰民で悪いか?」を書いた頃などは、一部の左翼から評価が高かったのに、今パートタイマーで地道に働いていると逆に評価が下がることだ。真面目に働くのは当たり前のことだからそれをやっているからといって話題にもならないし評価もされない。マスコミも論壇も運動業界もそうだが、「何か」(事件事故や弾圧等)がなければ注目してくれない。私は「惰民で悪いか?」で書いた立場性を変えたわけではない。ただ、生き残るために、生き延びるために働いているのだ。しかしそれを咎める人さえいる。何故、働いたからといって咎められねばならぬのか。実に不条理だと思う。だが、それが運動界隈、左翼界隈の実態である。それもまた、私が左翼が厭になった理由の一つでもある。私は不穏さを抱えつつ日常を、日常生活を生きている。それが肯定されないなら生きていることはできない。私は生きるために転向した。だから自分の転向を恥じてはいない。運動仲間と上手くやっていけなくなったとしても、無数の絶交なりが生じたとしても、それはやむを得ぬ。生存が第一、である。
ここで一旦区切る。