芸音音楽アカデミーレッスン中

沢田さんのウクレレの後、福原さんらが来て今カラオケ。
私が教えたり、母親・攝津照子が教えるのを観察していて考えていたのは、記譜法の多様性ということと、「教える」という事柄のことだった。
私は、ヨーロッパのクラシック音楽の記譜法かそれを簡略化したバークリー・メソッドの記譜法のみが記譜法であるかのように思い込んでいた。が、それは正しくない。津軽三味線の稽古に出れば、三味線には三味線の記譜法があり、ウクレレを教えれば、ウクレレにはウクレレの記譜法があることを知り、母親・攝津照子が演歌を教える時にこぶしや休符などを書いて教えるものは楽典を知らぬ地域の高齢者にも理解できるように工夫され簡略化された記譜法だと理解する。
このように様々な音楽に様々な多様な記譜法があった。それは言語ゲームならぬ、記号ゲームと呼んでも良いだろう。
教える-学ぶ体験は優れて記号ゲーム的な体験である。伝達(コミュニケーション)が成功するかどうか、それが問題だ。私は時に弟子として、時に教師として音楽教育の場に立つ。
それで、音楽というものの多様性を理解する。
例えば、演歌というものも、馬鹿にしたものではない。私は、母親・攝津照子が教えるのをよく観察していたが、細部まで配慮が行き届いており、私ではこうは教えられないなと思った。つまりこれは、彼女なりの記号ゲームであり、会員さんらはそれを共有しているのである。
後藤雅洋さん(id:eaglegoto)がジャズ体験を現象学的枠組みを用いて分析しようとしているが、同様に言語ゲーム(記号ゲーム)という観点からも分析が可能であろう。モダンジャズにはモダンジャズの、演歌には演歌の、それ固有の言語ゲーム(記号ゲーム)がある。そして例えばクラブ・ジャズのDJは、伝統的なジャズメンやジャズファンとは異なった視線から、過去の音源を参照したり、ミュージシャンの意図から離れたところに魅力を見出す。大友良英『MUSICS』(岩波書店)が戦後ジャズメンのテレビ音楽などバイショー物に固有のオリジナリティを見出しているのはその一例である。このように芸術作品において何が良いとされ、何が良くないとされるかは、人々の共通の経験と伝達(コミュニケーション)に基づく言語ゲーム(記号ゲーム)的現象である。要するに、多様で可変的な諸規則があり、もろもろの視点の多様性や転換があるのだ。