音楽を教えるということを考える

津軽三味線千代田輝次郎先生も、私の母親・攝津照子も、高齢者に音楽を教える仕事をしている。先生方が教えるのを観察していて興味を惹かれるのは、簡単なフレーズの反復練習を重視していることである。

地域の高齢者は、一回言ってもなかなかコツを理解しない場合が多い。だから、伝達が生じるように、先生方は繰り返し繰り返し特定のフレーズを弟子・生徒達に教え込むのである。ウィリアム・ジェイムズが教師に向けた心理学の本で書いていた通り(『ウィリアム・ジェイムズ著作集』第一巻)、先生方は弟子・生徒らのうちに良い習慣・観念連合を形成すべく力を注ぐのであり、音楽を教える場合私もそうしている。

以前、『探究』で柄谷行人が「教える立場」の特異性といったことを取り上げて論じたが、確かに教えるというのは独特の、それ自体を教えることは困難な事象である。何故或る人は教師となり、他の人はそうなれぬのかは分からぬ。持って生まれた才能と、練習・稽古などを通じて形成した習慣から成る音楽的全体が、他者への伝達を可能にする「何か」をもたらしているのは理解できる。そして、津軽三味線の稽古であれ、ウクレレ教室であれ、カラオケ教室であれ、需要はあるのである。つまり、堅苦しい四角四面のやり方でなくても、音楽を楽しみたいという高齢の方が地域に多いということである。そこにわれわれの商売が成り立つ余地があるのである。