文字と思考

ラカンが、日本人は精神分析不可能だし精神分析は必要ない、何故なら彼らは、漢字仮名混じり文でものを書いているから、というようなことを『エクリ』の序文だか何だかで語った。
そしてそれに、柄谷行人山城むつみといった日本の思想家が応答していた。

しかしそれにしても、それは精神分析が西洋哲学と深い縁を持っていることを自ら白状したようなものだったとしても、日本人でも苦しむことはあるし、神経症なり精神病になることはあり得る、オイディプス的ないし非オイディプス的なもろもろのコンプレックスを持つことはあり得るというのは自明なことではないだろうか。
非西洋社会において、神経症なり精神病のありようが西洋と異なるとしても(例えば中井久夫の『治療文化論』が語るように)、病いという現実は確かにあるのであって、それへの対処なり応答は必要ではないのだろうか。
病む者に、精神分析は普遍的ではないが、抗不安剤は普遍的だというあからさまな事実の皮肉。

日本人は思想したかという題名の本があって、以前斜め読みしたことがあるが、哲学ではなく宗教、儒教国学、文学などもろもろのかたちでものを考えてきたということは自明ではないか。
哲学を、狭義の存在論ではなく、倫理-生態学、美意識など幅広く理解するならば、日本人もものを考えてきたし、今も考えていると言って過言ではないはずだ。
例えば漫画やアニメにすら、思考の萌芽が含まれているはずだ。
このブログもそうだが、もろもろの雑草的な生い茂るインターネット言論にしてもそうだ。
無償の書き手が日々の思いを綴る中に、微小思考なり微小創造なりがないはずはない。

と、ここで一旦筆を置く(意味ねーじゃんwww)。