私が哲学する可能性

私に哲学できるだろうか。
ということを、考える。
条件は、外国語が堪能でない凡庸な日本人に、ものを考えることができるだろうかということである。

勿論、強度の差異こそあれ、誰でもものを考えてはいる、とはいえる。
例えば、今日の夕食は何にしようとか、将来は何をしようかとか、いろいろ「思って」はいる。
しかし、それと哲学的思考は、どこかが違うのかもしれない。

そもそも「哲学」という言葉自体が、明治時代に西周がつくった造語であり、それ自体からは意味内容が明晰ではない。
「哲」を学ぶって何よw
最も純粋に、それ自身として-それ自身を考える思考のありようが哲学というのだろうか。

ドゥルーズ=ガタリの『哲学とは何か』でも問題になっているが、ギリシアという起源の参照なしに、非西洋世界で哲学が成り立つかどうか、というのは難しい問いだ。
日本でもそうなのだが、ドゥルーズ=ガタリの用語に従うなら、figureに頼らない、言い換えればイメージに頼らない概念的思考というものが東洋なり日本なりにあったのか、どうか。

西洋哲学でいえば、初期の自然哲学者らがアルケーを探求して、それを水と名指した後(タレス)、アナクシマンドロスが「無限定なもの(ト・アペイロン)」と一挙に抽象化する。
そこに哲学的概念的思考の萌芽があると思う。
それから、パルメニデスの「あるものはある、あらぬものはあらぬ」やヘラクレイトスの「一切は生成流転する」が来、ソクラテスが倫理的原因=善を探求しプラトンイデア論を提唱するに至る。
アリストテレスはもろもろの原因を質科因、作用因、形相因、目的因に分類し、形相-質科モデルを提唱してその後数千年の思考の道すじを決定する。
中世においては神学の装いのもとに哲学が営まれていたが、個物とは別に普遍者があるのかという論争などは深い哲学的内容を持つものだった。
近世、デカルトが「私は考える、私はある」を確立し、カントが思考に時間性を導入する。
ベルクソンらは純粋持続の相において私の生を思考し、キルケゴールハイデガーサルトルらは実存を問う。
68年の思想家達は、既成の「主体」概念には回収されない、構造的効果の探求に向かった。
レヴィ=ストロースは未開社会の構造主義的分析を武器にサルトルを論難し、フーコーはそれぞれの時代において思考を規定するエピステーメーを分析し、ラカンは語る主体が生誕する場を鏡像段階において捉え、ドゥルーズは存在を差異の相のもとに見、時間を反復の諸相として把握し、「潜在的なもの」の存在論を作り上げた。
彼らにとって主体とは原因ではなく、諸効果だった。
私が語るのではなく、言語が語るのであり、「私」は非人称の呟きから生成する現象に過ぎないものだと考えられた。

と、ここで筆を置く(って意味ないじゃんw)。