問いかけ

もう一度考えてみる。
外国語が堪能でない、凡庸な日本人であるところの私に、哲学的思考は可能か、どうか。
小説について、読まない者は書かない、という。
同じことが哲学についてもいえるのなら、私は哲学できないと思う。
というのも、今や私はほとんど哲学書を読まない、というか本自体ほとんど読まなくなっているし、例えばドゥルーズ『意味の論理学』を開くことがあっても、読んでも分からないし、意味不明だし、全く虚しいと感じるようになってきているからだ。
ドゥルーズが「哲学」なら、「哲学」に意味はない、ただの戯れだと思う。
(ただの戯れで何が悪い? という開き直りもアリだとは思うが。)

柄谷行人が「形式化」を提唱し、全てを二項対立に還元し、哲学体系それ自身は形式的なもので意味はない、それに意味を与えるのは歴史であり文脈である、みたいなことを言った。
そうかもしれないと思う。
しかしそうだとしたら、歴史なり文脈を読み解く知性が必要になるし、そのようなメタ的視線は何によって保証され担保されるのかという難問も生じる。
全ては戦略であり、言葉を用いた/用いない駆け引きなのだ、というのも一種の極限的なニヒリズムとしては成り立つと思うが、所詮それはニヒリズムでしかないとも思う。
全ては政治である、それはいい。
だが、どういう政治なのか。
それを問う必要がある。

と、ここで筆を置く(意味ねーじゃんw)。