人間の技、力量、潜勢力について

以下、MLに投稿しようと思ったが長くなり過ぎたのでブログに掲載することにした文章。

Nさんの主張にほとんど異議ありません。

アントレプレケールの正しい綴り=intello precaireも知らなかったし(道理で幾ら検索してもヒットしなかったわけだ(恥))、熊沢誠という人も知りませんでしたが、今後勉強してみたいです。

私の基本的な意見は、基本的に習慣形成とそれの組み替えのダイナミズムに人間の潜勢力なり技なり力を見て取るというものです。われわれが自立的ないし自律的に考え・語り・書き・ものを造るといった営みを継続してきており、且つ新たな創造なり発明をそこに付加し続けているという端的な「事実」に立脚します。

近代においては、そうした人間の潜勢力は主要に「(賃)労働」というありようとして顕れてきたと思いますが、必ずしも労働に尽きるものではなく、より広い「生産」概念で把握すべきだと考えています。われわれは言説的な仕方で、また非言説的な仕方でもろもろの制度を創出し、継続し、或いは組み替えつつ──または破壊しつつ──その中で生きています。

そのような「習慣」を重視する立場は、マルクス主義者らからは評判が悪いですが、アメリカのプラグマティズム、特にパースやデューイに顕著に見られるものです。それはヒュームのイギリス経験論の伝統を継承したものではないかと思います。NAMで知り合ったディドロ研究者王寺賢太から聞いたのですが、小林秀雄が「革命とは生活習慣の変革である」とどこかで言っているそうです(出典不明)。私も基本的にそう思います。例えば、君主がいて、その前にひれ伏す臣下らがいるとして、君主と臣下の関係は実は虚構、作られたものであり、或る日臣下らが一斉に・突如としてひれ伏すのを辞め、王を王として認めないならば、君主-臣下関係(という制度)は崩壊します。

勿論、君主(例えば天皇)-臣下といった政治的関係であれ、商品フェティシズムや貨幣フェティシズムといった経済的関係であれ、或る日突如大衆が自覚・覚醒しさえすれば(笑)崩壊する、といった単純なものではなく、既成制度としての惰性もあり、理由もなく非合理に存続するといった場合もあり、一概には言えません。しかし、草の根の思考と営為の積み重ねが、いつの日か変革を惹き起こすはずだという希望を持たずには、生きてなどいられないという気がします。

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