将棋

飛弾五郎から、柄谷行人がNAM原理を思いついた時、思わず「詰んだ!」と叫んだ、という滑稽なエピソードを聞いたことがある。が、思うに、NAMとは詰め将棋みたいなものだった。で、実際の運動、事業、生活は対局(実際の勝負)。詰め将棋とリアルな対戦が違うのと同じくらい、NAMと実際の具体的運動は異なっていた。

僕が厭だったのは、太田出版社長の高瀬幸途のような言説。あれこれと高いハードルを掲げ、これこれをクリアしなければNAM的ではない、とする独善的な態度。僕はNAMのセンター評議会で高瀬のそのような言説をあからさまに批判していた。今も当時も、思いは変わらない。NAM的とは?などと悩んで結局何もできず、まるで動けないのでは、自縄自縛だ。そんな馬鹿なことは早くやめたほうがいい。もっと気楽に、身軽になるべきなのだ。左翼だからといって、重くなければならない、といったことはない。もっと現状に対応して、機敏に動く必要があるのだ。そして、現在を楽しまなければならない。「倫理」の重圧に押し潰されて無為になるなんて、本当に阿呆らしい。そんな必要、全くないと思う。むしろ基本は功利主義・快楽主義でいい。ただ、エコロジカルにそうあるべきなのだ。それがRAM宣言の言うところの、倫理的-経済的ヘンタイなのだと思う。僕はNAMのもろもろのプロジェクトの中でも、RAMは特に面白かったと思う。確かにNAM総体の病理を端的に表出してもいたけれど、変な人ばかりが集まって、異様なコミュニケーションを実現していた。とはいえ、岡崎乾二郎のムラでしかなかったけれど。