紛争の本質

Q-NAM問題は多数のQ-NAM会員を巻き込み、生々しい人間的(或いは非人間的?)なドラマが演じられた舞台であったが、その本質を見ると、柄谷行人西部忠の理論上の一騎打ちとも捉えられる。つまり、貨幣の「信用」、その価値が何によって根拠づけられ成り立つのか、という重要な論点に対する思想が違うのである。

西部忠は、貨幣が金(きん)から紙幣に、そして電子マネーにと脱実体化していく趨勢を踏まえ、個々人の間の信頼関係をベースに成り立つ地域通貨を構想した。それに対し、『Lの理論』における柄谷行人は、国民通貨(円)に、基軸通貨ドルに、そして最終的には金(きん)に根拠づけられて初めて、流通する市民通貨が成り立つと考えた。英語版及び岩波著作集版の『トランスクリティーク』ではLETSに関する記述が完全に書き改められている。

僕は柄谷行人『Qは終わった』がNAMホームページで公表された時、西部忠が説得的な理論的反論をQのホームページに掲載していれば、Q-NAM会員はいずれの言説を信用したらいいか、自分の頭で判断できただろうに、と残念に思う。当時は、虚しいパフォーマンスや威勢の良い(その実空疎な)言説ばかりが横行しており、冷静に理論的吟味をする余裕など誰にもなかった。だが、現在は違うはずである。西部忠(Q)が正しいのか、柄谷行人(L)が正しいのか、或いは両者とも駄目なのか、自分の頭で考え判断することができるはずだ。僕は、今からその判断をするのでも、少しも遅くない、と思う。そもそも資本主義をどうにかしよう、ということ自体、時間が掛かる話だったのだから、数年遅延が生じたところで、何ほどのことでもないだろう。