「読書会」ML宛ての投稿、二通目

関連情報を送ります。

市田良彦さんの、「日本でのマルチチュード出現の兆候は、「不幸なことだが、自殺者の増加かもしれません」という。「自殺は文字通り社会の中から消える行為であり、『自分がどこにも位置を占めていない』という強烈な自意識を感じます」 」という分析に、現在の鮮烈な生政治の在り様を感じ、ぞっとしました。渋谷望『魂の労働』でも、ネオリベにおける「宿命的自殺」の回帰について、否定的ではなく両義的な態度なのです。つまり、それは解放の契機でもあり得る、ということを言っているのです。酒井隆史『自由論』のゴースト・ドッグの分析は、それを犬死にだとし、自分は犬死にはしたくない、というものでしたが、渋谷さんの分析は、ゴースト・ドッグの倫理と美学を半ば肯定しているようで、それは如何なものか、と思いました。


http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=2879218&comm_id=317430

マルチチュード論:「現状肯定」を乗り越える思想−−市田良彦・神戸大教授に聞く

 ◇アントニオ・ネグリマイケル・ハート著『マルチチュード』とは−−邦訳監修者、市田良彦・神戸大教授に聞く

 イタリアの哲学者、アントニオ・ネグリアメリカの文学者、マイケル・ハートの共著『マルチチュード』(上下、幾島幸子訳・NHK出版)が話題になっている。2人の前著『<帝国>』は、現代の世界秩序を帝国と表して論争を呼んだ。続編の本書は、帝国に抵抗する存在「マルチチュード」が全世界で現れつつあるとの仮説を肯定的に展開する。邦訳監修者の市田良彦神戸大教授にマルチチュード論を聞いた。【鈴木英生】
 「マルチチュードとはヨーロッパ中世の言葉で、『自国民かよそ者か何の職業かも分からない、とらえどころのない連中』といった意味です」
 普段、人はさまざまな役割や身分を負って生きている。しかし、難民や移民などになって、自分のいる社会に居場所がないと感じたり、社会自体が危機に直面して既存の価値観が意味を持たなくなった時、誰もが役割や身分を拒否した存在、マルチチュードになる可能性を持つという。
 現代のマルチチュード論は世界秩序としての<帝国>の存在を前提とする。今の世界にはインターネットや多国籍企業、国家間の条約や同盟など、さまざまなネットワークが互いに影響し合って存在する。「帝国とはこの総体が、あたかも単一の権力のように世界中の人々の生を拘束している状況を指します」。地球上に帝国の外部はない。これがマルチチュードが現れつつある理由だ。「帝国からの逃げ場がないからこそ、多くの人が『今、自分がこの社会でどう存在しているか』に、自覚的になり始めています」
 本書は、以上の仮説をホッブズ、ルソーらの社会契約論をはじめ、マルクスフーコーら古今の政治哲学を援用しながら展開する。
 マルチチュードWTO世界貿易機関)反対運動などと重ね合わせる論者もいるが、マルチチュードは運動体として理解できるとは限らないという。一例がフランスの暴動。フランス共和国の理念では、国民は誰もが同質で平等なはずだ。だが、暴動の当事者はフランス国籍なのに移民と呼ばれ、ある意味でフランス人扱いされてこなかった。むろん外国人でもない。
 「彼らは、共和国の根本理念が何を見えなくさせているかを見せた、という点でマルチチュード的なのです」
 ただし、マルチチュード論は暴動一般や、まして9・11のようなテロを擁護するわけではない。
 日本でのマルチチュード出現の兆候は、「不幸なことだが、自殺者の増加かもしれません」という。「自殺は文字通り社会の中から消える行為であり、『自分がどこにも位置を占めていない』という強烈な自意識を感じます」
 マルチチュードが、帝国の権力構造に抗して「絶対的民主主義」を生み出すというのが本書の結論だ。ただし、これは未来の完成された制度や体制ではなく、社会問題が動く瞬間に現れ出るものだという。つまり、「いったん今の社会の根本にある合意を問題にしなくては、どんな新たな制度も作れないという考え方のことです」。言い方を変えれば、既存の社会が位置付けられない人々が、だからこそ社会を根本から問題化でき、その結果、彼ら自身がその社会の中で何らかの位置を占めるという過程を指す。
 マルチチュードは、帝国を前提にした「仮説の仮説」でしかない。だが、著者はこの仮説に極めて楽観的だ。その楽観主義にこそ本書の意義があるという。
 「楽観主義は、既存のものを全否定する彼らの悲観主義の裏返しでしょう。ただし、世間にまん延する単なる悲観主義は、『人間はしょせんこんなものだから、この程度の現状でも認めよう』という安易な現状肯定に結びつきます。彼らは、その『この程度でいい』という話を、もうやめたいのだと思います」

毎日新聞 2005年12月28日 東京夕刊

転載「スラヴォイ・ジジェク−−資本主義の論理は自由の制限を導く」
http://d.hatena.ne.jp/fenestrae/20060109#p1
(原文)http://www.humanite.fr/journal/2006-01-04/2006-01-04-821161

全文がとても興味深いのですが、とりあえずマルチチュード関連を部分抜粋。リンク先は必読!

ユマニテ紙:トニ・ネグリマイケル・ハートが『帝国』−−あなたはそれを「マルクス以前」の著作と呼ぶ−−の中で提唱するグローバル資本主義の分析に対するあなたの批判の根拠は何か。

ジジェク:ハートとネグリは袋小路にはまっている。一方で中央集権化する帝国があるとしながら、もう一方ではマルチチュードが可能とするのだ。しかし−−単純化して言うなら−−彼らは現代の資本主義がすでにマルチチュードのモードで、網目状に機能しているということを認めなければならない。分権化し、多元的で、ノマド的なマルチチュードの新しい運動を表現するために彼らが使う用語のすべては現代資本主義の機能に適用することができる。ネグリが現代の資本主義の最新の発展の中に共産主義の萌芽を見るところへとすべり外れていったのは、そのことの無縁でないと私は考える。そうなると資本主義と闘うことが問題なのではなく、逆に協力すること、その活力に貢献して何が悪いということになってくる。ネグリには今や一種の資本主義礼賛が見られる。

ちょっと古い、糸圭さんの〈帝国〉書評を引っ張り出しました。
http://www.juryoku.org/suga2.html