Q患者、Q病人

NAM末期において、柄谷行人がよく、「Q患者」とか「Q病人」という表現を用いていたけれど、それらの形容に最もよく当て嵌まるのは私ではなかったかと思う。私は、Q導入なしにはNAMは終わりだと思っていて、ファナティックな強引さでNAMのQ会費導入の議論をNAMセンター評議会で行ったし、Q紛争が顕在化してからも、Q放棄=市民通貨Lの提案を受け容れることがどうしてもできなかった。QはNAMメンバーの協業で作ってきたと思ったし、それを放棄するなんてできないと考えていた。だから柄谷行人のLの提案にイエスと言えなかった。にも関わらず、最後にはQを裏切ることになるし、さらに、時間が経ってのことだが、文字通りQを破壊しようとすら試みることになる。西部忠が分析していたように、私はQを愛していた。愛しさ余って憎さ百倍という常套句がこれ程簡単に妥当する例も少なかったろう。私はQで世界を変えるつもりだった。しかし、うまくいかない。その失望感が西部なら西部への憎しみに転化する。西部の分析が言っていたのはそういうことである。つまり、患者であり、病人であるということだ。私は今も患者であり、病人であるかもしれないが、その限界内で、できるだけ倫理的に振る舞いたいと思っている。