京都会議

京都会議とはいかなるものだったのか、私もその参加者の一人だが、正確には分からない。両極をなす見方として、西部忠のメールと柳原敏夫のメールがある。

http://www.q-project.org/q_kyoto8.html

http://after-that.net/lets_think-2_0_1/pub/siryo/1229.html

京都会議は非人間的な「査問」の場だったのか? それとも人間的な「説得」の場だったのか?

私は正式な会議の時は起きていたが、深夜になると寝てしまった。故に何が起きたのかはっきりとは分からない。

事実として覚えているのは、翌朝目をさますと登記人の西原ミミが「攝津さん、攝津さんが寝てる間に大変なことが起きたのよ」と言い、「何ですか?」と私が問い返すと、サングラス姿の柄谷行人が笑って「Qが無くなったんだよ」と答えたことである。

私は冗談にしては不気味なものを感じたが、それ以上何も言わなかった。

京都会議の場で柄谷行人宮地剛のQ専従者立候補、穂積一平の暴言などに対して批判したのは事実である。しかし柄谷は、Q監査委員の資格で出席したとはいえ(実は任期切れだった)、Q管理運営委員会のメールを長い間読んでいなかった。ゆえに柄谷の判断は、伝聞に基く、多分に即興的なものだったはずである。

柄谷は京都の登記人グループを徹底擁護した。柄谷は登記人の後藤学が解任動議を出されているのを京都会議のその場で知ったはずだ。その後藤を擁護した。(とはいえ、後藤が西部忠から解任動議を出されていたのは、専従案を批判したからではなく、モルモット発言──自分たちは西部の「モルモット」ではない、という主旨の発言──に関してだった。)

lets_think ML(http://after-that.net/lets_think-2_0_1/pub/lets_think.html)では、柄谷が会議を滅茶苦茶にしたとの見解が度々述べられている。しかるに、柳原のメールに引用されているように、登記人はオフライン会議を開催してよかったとの感想を洩らしている。

鎌田哲哉がいうような(http://www.q-project.org/q_kyoto.html)、「代理」「依存」「代弁」もそこにはあっただろう。だがそれだけだったのか。実働者への配慮という重要な視点もそこにはあったのではないか。

鎌田は、登記人の実働が過重であったという前提そのものにも異議を唱えている。週一日の労働ではないか、というのである。しかし、登記人が本業とは別に登記業務を担っていた事実にも配慮しなければならないだろう。

このように、京都会議の位置づけについてからして迷うところがあるゆえに、Q-NAM紛争の総括も書き進められないでいるのである。