「その後の意見」への応答──NAMにおけるフリーター問題

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穂積一平は、NAM参加者に関して、吉本隆明の有名な概念「大衆の原像」をもじった「大衆の幻像」というコンセプトを提案している。

穂積の分析は、ある意味妥当なものだと思う。「自立した個人」(経済的にも、精神的にも)を前提していたはずのNAM会員の多くが、精神的には柄谷行人に依存し、経済的にもフリーター(ジャンク)的状況にあったことは、NAM内部に居た私から見ても事実である。

しかし問題は、事実としてそうだった時、各人がどのような対応を取ったかである。基本的に、NAMの「大人」たちは、未成熟なネット・キッズ(と穂積が呼ぶもの)を見捨てるという態度を取った。

例えば太田出版社長の高瀬幸途は、NAMをアソシエよりも電脳突破党(キツネメ組)よりも活気ある運動体と夢見、大規模な生協と連携しているATJ(http://www.altertrade.co.jp/index.html)のような「事業」こそNAMなのだと常々言っていた。しかるにNAMに集ってきたメンバー、特に学生及び準学生(フリーター等)の観念性や不器用さを見るや、NAMへのコミットをほとんどしなくなる。

また設楽農学校、100ワットクラブ(http://www.100watt.jp)の湯本裕和は、農学校のNAM的活用を訴え、特に学生に来て貰いたいと何度も東京まで来て訴えたが、芳しい反応はなく、NAMに失望して身を引いていくことになる。

また、株式会社形態のフリースクールを提案していた飛弾五郎は、攝津正(私)などの反対を受け、それを断念した。

ゆえに、突破口はLETS-Qしかないという状況がQプロジェクト稼動前に既にあったのだ。私自身は、『可能なるコミュニズム』での西部忠LETS論に興味を持っていたこともあり、湯本からQプロジェクトの停滞・危機的状況を訴えられたこともあって、Qプロジェクトに参加した。

しばらくNAMではQへの熱狂が続いた。その中心に居たのは、早稲田で長年アパートを経営してきた蛭田葵だった。蛭田は、NAM東京の『NAM原理』読書会でLETSの可能性を力説しては、世界資本主義で考えることこそがNAMであり、先進国でのLETSは現実的でないとという強い意見を持っていた高瀬から批判されていた。その蛭田が、はずれもの(学生、フリーター、失業者…)の集まりの様相を呈していた当時のNAM東京で、中心的な存在となった。蛭田が中心となって、府中のカフェスローで、何度も大規模なQパーティーが催された。また蛭田は東北に何度も足を運び、生産者たちと地道な関係を築いていった。

山城むつみが警告していたような、「QなきNAMは空疎である」というような状況に徐々になっていた。そのような傾向が頂点に達していた時期に、Q紛争のクライマックスの一つである「京都会議」(京都で作業していた登記人が、労働負担が過重であると訴えて開催されたQ管理運営委員会のオフライン会議)が催された。それ以降、泥沼の紛争が始まることになる。